2016年02月03日

Episode4 若き空海の遍歴「華厳経」→「大日経」→「理趣経」へと辿る

司馬遼太郎 著「空海の風景・上巻」より

 空海は32歳、大唐の長安で『理趣経』を得たとき、この年齢のころ、空海はすでに性欲はいやしむべきものであるという地上の泥をはなれてはるかに飛翔してしまっている。それどころか性欲そのものもまたきらきらと光耀を放つほとけであるという、釈迦がきけば驚倒したかもしれない次元にまで転ずるにいたるのである。

 筆者は空海がなぜ大学をとびだしたかについてのなにごとかを知ろうとつとめている。かれの青春における変転を知るために、かりに、つまりは作業用の仮説として、かれにおける性の課題を考えようとしている。ひるがえって考えれば、人間における性の課題をかれほどに壮麗雄大な形而上的世界として構成し、かつそれだけでなくそれを思想の体系から造形芸術としてふたたび地上におろし、しかもこんにちなおひとびとに戦慄的陶酔をあたえつづけている人物が他にいたであろうか。

 理趣経(般若波羅密多理趣品)というのはのちの空海の体系における根本経典ともいうべきものであった。他の経典に多い詩的粉飾などはなく、その冒頭のくだりにおいていきなりあられもないほどの率直さで本質をえぐり出している。

   妙適清浄の句、是菩薩の位なり
   欲箭清浄の句、是菩薩の位なり
    触 清浄の句、是菩薩の位なり
   愛縛清浄の句、是菩薩の位なり

 妙適とは唐語においては男女が交媾して恍惚の境に入ることを言う。インド原文ではsurataという性交の一境地をあらわす語の訳語であるということは、高野山大学内密教研究所から発行された栂尾祥雲博士の大著『理趣経の研究』以来、定説化された。筆者もそれにしたがう。インド人は古代から現代にいたるまで物事の現実の夾雑性をきらい、現実から純粋観念を抽出するというほとんど本能的な志向をもっているが、しかしこの語は性交の経典である『愛経(カーマ・スートラ)』においても媾合としてつかわれているというから卑語、穏語ではなくごく通常の用語として使われていたのであろう。これが長安に入って唐語に訳されたときに、妙適という文字があてられた。妙適は長安の口語ではあるまい。あるいは訳者がとりいそぎこういう造語をつくったのかもしれない。なぜなら性交の各段階に関する分類や言葉はインドにおいてこそそれが明晰で、ほとんどいちいち成分を抽出して結晶化してみせるほどに厳密であったが、インドにくらべて言語における明晰性のとぼしい中国にあっては造語をするしか仕方がなかったかともおもわれる。

 妙適清浄の句という句とは、文章の句のことではなく、ごく軽く事というほどの意味であろう。「男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である」という意味である。
 以下、しつこく、似たような文章がならんでゆく。インド的執拗さと厳密さというものであろう。以下の各句は、性交の各段階をいちいち克明に「その段階もまた菩薩の位で」あると言いかさねてゆくのである。
 第2句の、
「欲箭」
 とは、男女が会い、たがいに相手を欲し、欲するあまり本能にむかって箭(や)の飛ぶように気ぜわしく妙適の世界に入ろうとあがくことをさす。この欲箭たるや宇宙の原理の一表現である以上、その生理的衝動のなかに宇宙が動き、宇宙がうごく以上清浄でないはずがなく、そして清浄と観じた以上は菩薩の位である…。
 ついでながらこの経典における性的運動を説く順序が逆になっている。「欲箭」の前段階が、「触」である。
 「触」
 とは、男女が肉体を触れあうこと。それもまた菩薩の位である。

 次いで、「愛縛」の行為がある。仏教経典における愛という語はキリスト教におけるそれではなく、性愛をさす。愛縛とは形而下的姿勢をさす。インドのブンデルカンドの曠野にある廃都カジュラホの、そこに遺っているおびただしい数の愛の石造彫刻こそ愛縛という字義のすさまじさを物語るであろう。理趣経はいう。男女がたがいに四肢をもって離れがたく縛りあっていることも清浄であり、菩薩の位であると断ずるのである。この経の華麗さはどうであろう。
 さらに理趣経は「一切自在主清浄の句、是菩薩の位なり」という。その一切自在の「自在」とは後世の禅家がしきりに説く自在ではなく、生理に根ざした生理的愉悦の境を言うのであろう。男女が相擁しているときは人事のわずらわしさも心にかかることもなにごともなく、いわば一個の人事的真空状態が生じ、あるいは宇宙のぬしもしくは宇宙そのものであるといった気分が生じ、要するに一切自在の気分が漂渺として生ずる。それも、菩薩の位である、というのである。
 筆者は、奈良の東大寺に電話をかけてみた。東大寺は空海以前の成立で、仏教における華厳の体系を宗義とする寺である。しかし空海が後年、かれは真言密教の始祖でありながらこの大寺の別当として一時在山したため華厳のほかに真言密教の教義が入っているといわれる。「東大寺でもっとも多くよんでおられるお経は何ですか」ときくと、意外にも空海が自分の思想の核心においたこの理趣経であった。その後、高野山にのぼった。朝六時からの勤行に出ると、そこでよまれていたお経も、理趣経であった。理趣経に性愛のなまなましい姿態的説明が書かれ、それがとりもなおさず菩薩であるということは、教典が唐音で音読されているためにわれわれはその極彩色的情景を想い描くことなしに済んでいる。日本の中世にあってこの理趣経の字句的解釈を知った僧によって、この字句解釈のみをとりだして性交こそ即身成仏にいたる行であるとした一流義ができた。たとえば南北朝争乱期の後醍醐天皇がその熱狂的な信者になったりしたことがあるが、むろんそれは空海の本意ではない。空海は万有に一点のむだというものがなくそこに存在するものは清浄--形而上へ高めること--としてみればすべて真理としていきいきと息づき、厳然として菩薩であると観じたのみである(ただしついでながらこれは釈迦の思想ではない。釈迦の教団は、僧の住む場所に女の絵をかかげることすら禁じたほどの禁欲の教団であった)。さらについでながら、理趣経の文章が律動的な性的情景を表現しているということは、空海以後、それが漢語であるがためにあまり的確には知られることがすくなくて過ぎてきたが、大正期あたりから梵語学者の手でそれが次第にあきらかにされはじめた。ただ空海は長安においてインド僧から梵語を学んだためにそのいちいちの語彙のもつ生命的情景も実感もわかりすぎるほどにわかっていたはずである。
 かれが勤操というこの時期の有力な学僧から格別な庇護をうけたことは、かれにとって重大なことであった。勤操との関係におけるかれの資格は、近事というものだったと思われる。近事とはこの当時の寺院の用語である。僧たる資格なくして師に仕え、師の指導によって仏事をおこなう者、というほどの意味で、男の場合を近事男、女の場合を近事女といった。空海は、勤操の近事男になった。これによって勤操の身近にいてその話をきくことができたし、また諸管寺が蔵している経典類も、勤操のつかいという資格において、出かけて行ってそれを閲覧することもできた。これは尋常ならざることであった。この当時、諸官寺の経蔵に入るなどはよほどの立場をもたなければ不可能であり、そのことをなしうるには、なまじい官僧になって僧網のはしくれにつながるよりも、勤操の指摘給仕入になり、かれの用事であるとして諸管寺の経蔵をひらいてもらうほうが、はるかに自由自在であったといえる。後年の空海の、ときに目をみはりたくなるほどのずるさが、このあたりにすでに出ている。かれが世間を御するにおいて芸術的なばかりに妙を得ていたということは、勤操の近事になったことにおいて、すでにその萌芽が青々とのぞいているのである。

 この七年間のあいだかれは山林において修行しつつも、右のような世間的才覚による翼を借りつつ諸寺を歩き、その経蔵に籠り、文字どうり万巻の経典を読んだらしい。空海の入唐後の、ただならぬ自信はこの時期の充実感をよりどころにしている。
 ところで、この時期、日本に存在していたのは、学解の仏教であった。
 この当時の仏教は、華厳、俱舎、成実、法相、三論、律という六部門にわかれ、付宗として唯議論、瑜伽論などもふくめられる。これらはすべて仏教的思考法を中心としたインド思想そのものの体系で、あくまでも思想であり、これをもって宗教という概念にはあてはめにくい。しかしながら空海がこれらのすべてを修めなければ、後年、かれが長安において、この唐都ですでにもたらされていた純粋密教というものを、接するやたちどころに了解したというふうな情景は成立しえなかった。
 いまひとついえば、インド本においても純粋密教の成立にいたるまでには、歴史的に右のような経過を経ているのである。
 空海はこの七年間に、学解の宗教を独習した。一部門でも非常な難事とされるのに、かれは猛獣が鋭利な歯で骨を割りくだくようにしてすべてを修めるというなしがたいことをやったらしい。とくにかれは華厳経において、のちのかれの飛躍と完成を遂げるための重大な素地をつくった。
 後年のかれは
 「過去のどの宗も真言密教にはるかに及ばない。ただ華厳経のみが、いま一歩のところで密教に近づいている」
 という意味のことをいったり書いたりした。華厳学は東大寺がその部門のための単科大学としてたてられている。かれが華厳にうちこんだということは、若いころ日本国第一等の官寺である東大寺に自由に出入りしていたことを暗示している。すでに触れたように、気の弱い僧なら門前で尻ごみするほどのこの官寺に、かれはぬけぬけと出入りし、経蔵に入りこんだり、無資格ながら講筵に顔をのぞかせたりしていたことになる。
 いずれにせよ、華厳をかれが知り、それに注目したということは、かれがいまだインドの純粋密教を知らずしてその成立の化学式を自得したようなものであり、この点において重大であったといっていい。
 インドにおいて、純粋密教を成立せしめた理論家たちが、本来低次元の宗教現象という意味で箸にも棒にもかからなかった土くさい雑密のたぐいのものを、あたかも化学変化をさせたように他のもの(純粋密教)に飛躍させてしまったそのかぎというのは、多分にこの華厳経にあった。華厳経を協力な触媒に仕立てて添加することによって、在来の仏教とも土欲的な雑密ともちがった形而上的世界をつくりあげてしまったのである。
 この作業に、インドの本土では何百年かかったであろう。釈迦以前のインド思想から釈迦以後をへて華厳経の成立(完成は四世紀ごろ)するまでの時間的距離を考えただけでも気の遠くなるほどの長い時間である。つづいてそれらを触媒にして純粋密教を生みだす期間だけでも百年以上はかかっているであろう。
 無名の青年である空海が、インドからはるかに遠い島国において、縮図的ながらも偶然インドとおなじ過程をたどりつつ、わずか七年で純粋密教へ飛躍するその基礎をつくったということは、信じがたいほどのことだが、しかし事実である。

 すこし、雑談風に華厳経についてのべる。
 中国および日本の思想にこの経ほどつよい影響をあたえたものもないのではないかとおもえる。一個の塵に全宇宙が宿るというふしぎな世界把握はこの経からはじまったであろう。一はすなわち一切であり、一切はすなわち一である、ということも、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、また禅がしきりにとなえて日本の武道に影響をあたえた静中動あり・動中静ありといったたぐいの思考法も、この経から出た。この経においては、万物は相互にその自己のなかに一切の他者を含み、摂りつくし、相互に無限に関係しあい、円融無礙に旋回しあっていると説かれている。しかもこのように宇宙のすべての存在とそのうごきは毘盧遮那仏の悟りの表現であり内容であるとしているので、あと一歩すすめれば純粋密教における大日如来の存在とそれによる宇宙把握になる。さらにもう一歩すすめた場合、単に華厳的世界像を香り高い華のむれのようにうつくしいと讃仰するだけでなく、宇宙の密なる内面から方法さえ会得すれば無限の利益をひきだすことが可能だという密教的実践へ転換させることができるのである。六世紀、七世紀のインドの理論家たちもそう思い、日本にあっては空海もそうおもった。空海はのちに真言密教を完成してから、顕教を批判したその著『十住心論』のなかで華厳をもっとも重くあつかい、顕教のなかでは第一等であるとしたが、このことはインドでの純密形成の経過を考えあわせると、奇しいばかりに暗合している。若い空海が陀羅尼を銜えてほっき歩いていたただの私度僧ではなかったということは、この論理の作業をしていたらしいということでわかる。

 奈良朝末期平安朝初期にかけ、国をあげて諸経典に接触した。そういう時代でありながらこの大日経がわすれられていたというのは奇妙なほどだが、いわゆる奈良六宗が僧侶にとって必須の学であった以上、それ以外の異系列の経典などはたとえ関心をもっても得度試験に関係はなく、また学僧たちが天子の前で講筳をひらく場合も、そのような非正統の経典を講ずるわけにゆかず、要するに宗教的重要よりも社会的需要が、この教典については皆無だったのである。自然、それがために忘れられたのではないか。という憶測だけでは、半世紀も無視されていた事情が十分に納得できないが、要するに異質の思想は異質の天才の出現を持つ以外になかったともいえるかもしれない。
 『御遺告』によれば、空海は夢にこの経を感得したという。『御遺告』は空海の談話の集録だから、晩年の空海は弟子たちにそんなことをいっていたのだろうか。
 『自分は三乗五乗十二部経を読んでも心神に疑いあってどうにも納得できなかった。このため仏前に誓願して、願わくはわれに第二の(決定的な)法門を示したまえ、と祈っていたところ、夢に人が立ち、つげていわく、ここに経あり、大毘虜遮那経(大日経)と名付く、これ汝がもとむるなり、と。そこで自分は随喜してくだんの経をさがしまわったところ、意外にも大和の国の高市群の久米寺の東塔の下にあった」
 と、神韻漂渺としている。

 いずれにせよ、その東塔の下にねむっていた大日経にはじめて接した空海のよろこびは、想像を絶するものがあったにちがいない。
 昼は塔内に籠って経を読み、夜は松林の中の僧房にでも泊めてもらったのであろうか。この時期、寺々は風来坊を泊めるのはともかく、食をあたえるほどの豊でなかったようであり、まして久米寺程度では空海のために食物まで用意できたかどうか。かれはときに村々を物乞いしてまわって食を得たかもしれない。
 もっともそのあたりはすばしこい空海のことである。
『私は、勤操上人のお使をしている』
 ということで、存外、大いばりで寺僧に斎を出させていた、と考えるほうがかれの情景としてふさわしいいようである。

 空海はこの大日経を、漢文の部分はおそらくよほどすみやかに読めたのではないかと思える。なぜならば大日経にみられる複雑な論理は他の仏教経典にみられないものであるうえに、およそ種類を異にしていると思われるほどのものであるが、しかし華厳経のみは種類をおなじくしているからである。華厳経に熱中していた空海ならば大日経の論理の世界には違和感をもたずに入りこめたにちがいない。さらにはもっとも重要なのは、華厳経に出現する毘虜遮那仏が、大日経にも拡大されて出てくることである。

 毘虜遮那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの思想上の存在である。毘虜遮那仏の別称はいろいろある。遍照ともいう。光明遍照ともいう。浄満、あるいは厳浄などともいう。あたかも日光のごとく宇宙万物に対してあまねく照らす形而上的存在という意味であり、ごく簡単に宇宙の原理そのものといってもいい。この思想を、空海ははげしく好んでいただけでなく、さらに「それだからどうか」ということに懊悩していたはずであり、その空海の遺り場のなかった問いに対し、『華厳経』は答えなかったが、『大日経』はほぼ答え得てくれているのである。大日経にあっては毘虜遮那仏は華厳のそれと本質はおなじながらさらにより一層宇宙に遍在しきってゆく雄渾な機能として登録している。というだけでなく、人間に対し単に宇宙の塵であることから脱して法によって即身成仏する可能性もひらかれると説く。同時に人間が大日如来の応身としての諸仏、諸菩薩と交感するとき、かれのもつ力を信用しうるとまで力強く説いているのである。空海がもとめていたのは、とくにこの後者〜即身成仏の可能性と、諸仏、諸菩薩と交感してそこから利益をひきだすという法〜であった。
 空海はどうみても天性そういう体質であるとしか思えない。
 かれは奈良仏教にみられるような解脱だけをもって修行の目的とする教えはやりきれなかったにちがいない。解脱とは人間が本然としてあたえられている欲望を否定する。その欲望の束縛から脱して自主的自由を得るというのが、釈迦以来、仏教における最高目的になっている。しかし煩悩の束縛を脱するだけならば白痴はすでに脱しているではないか。あるいは白痴には智彗がないために自主的自由における至福の境を味わうことができないという道理もありうるが、しかし白痴が主観的に自分の境地を不幸だとおもっているかどうかはわからない。その至高の自主的自由の境地を涅槃とよぶ。とくに生きながらの涅槃を有余涅槃とよぶが、生きながら涅槃に入りうる人など稀有というべきで、多くは煩悩のもとである身体が離散したときに涅槃に入る。これを無余涅槃という・要するに死である。死はたれにでも来るものではないか。死を喜ぶ教えとはどういうものであろう。しかも、死がきたあとに成仏できるかといえば、奈良仏教においては「それはかならずしも保証できない」という立場をとっているのである。
「そういうばかなことがあるだろうか」
 と、空海は不満だったにちがいない。空海は死よりも生を好む体質の男であった。
 かれの不満は、釈迦の肉声に近いといわれる諸経典に対するほとんど否定的なばかりのものであったにちがいない。
 かれは釈迦の肉声からより遠い華厳経を見ることによってやや救われた。死のみが貴くはなく、生命もまた宇宙の実在である以上、正当に位置づけられるべきではないかと思うようになったはずである。生命が正当に位置づけられれば、生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在として、つまり宇宙にあまねく存在する毘虜遮那仏の一表現ではないか、とまで思いつめたであろう。この思いつめが、後年、「煩悩も菩薩の位であり、性欲も菩薩の位である」とする『理趣経』の理解によって完成するのだが、その理解の原形はすでにこの久米寺の時期前後にあったであろう。思想家は本来、天の一角からおもわざる思想を啓示されて誕生するのではなく、かれの思想を触発したものが何であれ、やがてかれが生むにいたるその思想は、かれのうまれながらのものの中に蔵されているとみたほうが自然でいい。空海は生命や煩悩をありのまま肯定したい体質の人間だったにちがいない。さらに小乗的な解脱を死と苦のにおいのする暗くさびしいものとして感じ、それを、たとえ潜在的にせよ、全霊をもって拒みつづけていたところがあったにちがいなく、もう一歩踏み込んでいうと、生命を暢気で明るいものとして感ずる性格だったかとおもわれる。さらに言いきってしまえば、かれはそれらの思想的色彩感覚のほかに「悟り」というものから現世的な福利をひきだして当然ではないかという、あくどいばかりの願望をもつ体質の人物だったかのようである。

 ともあれ空海は、この漢訳をよむことによって大日経の理論は理解できた。
 ただし、空海にも解せない部分がある。大日経には、仏と交感してそこから利益をひきだすという方法が書かれている。その部分は、秘密(宇宙に内部の呼吸のようなもの)であるがために、宇宙の言語である真言を必要とし、また交感のためには真言だけでなく印を結ぶなどの所作を必要とした。この部分は大日経においても文章的表現が因難であるだけでなく、多くは梵字で書かれている。やがてかれは唐へ入ってインド僧に梵字を学ぶが、しかしこの時期においても素養はすでにあったかのようである。とはいえ、この真言という秘密語までは解くことができず、いずれにせよ、密教は半ばは教理で構築されているが、他の半ばはぼう大な方法の集積であるためにこればかりは手にとって伝授されることが必要であった。
 空海はこれがために入唐を決意した。大日経における不明の部分を解くためであった。空海の入唐目的ほど明快なものはない。かれは多くのひとびとのように栄達のために唐へゆこうとしたのでもなく、文明へのあこがれのために長安を見ようとしたのでもなかった。久米寺で見た大日経についての疑問を明かしたいためというだけのものであり、遺随・遺唐使の制度がはじまって以来、これほど鋭利で鮮明な目的をもって海を渡ろうとした人物はいない。
posted by master at 00:00| Comment(0) | Episode
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