2016年02月05日

Episode2 空海・流体力学

〜流体とフラクタルを内包する曼陀羅と真言密教〜
中沢新一 著

空海にはたくさんの顔がある。密教の思想家としての空海がいたかと思うと能書家にして名文家のアーティストとしての空海がいる。昔ながらの操作にたけた政治家としての空海も同居している。けれど、とりわけ興味をそそるのは、流体土木の技術者としての空海なのである。
 空海が流体を扱う土木技術者であったという事は、イメージとしても、また現実においても、彼の全ての活動を貫く太い縦糸となっている。溜池を掘り抜いたり、運河を開さくする土木工事は、ソリッド・システムと流体モデルを結合する高度な科学と技術を必要とする。流体土木の工事には無数の渦が複雑な乱流を作りながらたえまなく流動していく運動体の強度を予測し、測定した上で、それを分流させ、合流させる為に必要な速度、圧力、運動、接線等を取り扱う流体的思考、流体センス、流体に対する独特の感覚や体験的知識が要求されるのだ。流体土木の技術者には、ただの建築家以上のセンスがなくてはならない。そして、恐らく空海はこの独特のセンスに恵まれ、それに磨きをかけて、あらゆる面でぞんぶんに発揮した人なのである。
 また、空海の得意とした「書」の場合、第一に漢字を書く行為だから、そこには当然、何らかの意味を伝達する為の言語構造が背景になっているはずだ。感じの中に潜んでいる「自然の身ぶり性」の様なものは最小限に抑制されなければばらないだろう。ところが道教的伝統の中で生み出される「行」や「草」の書は、いったん形式化にむかった漢字の中に、ふたたび「自然の身ぶり性」を注ぎ込んでいこうとするのである。ここにはソリッド・システム(言語の意味論的構造)と流体モデル(行や草の運動性)を結合する流体土木的な発想がみちあふれている。 確かに空海の「書」には、こういう玄妙なタオの遊戯性が満ちあふれている。
 それならば、名文と言われているものだって、その例外ではない。ここでも、ただ明瞭な意味を伝えるだけでは不十分で読み手を感動させ、説得する事、その場合、古代的な修辞学では言葉のダンスとでも言うべき音楽性が強調された。そこでたとえば空海が、駆使した四六駢儷体の様に、意味の伝達性と共に、視覚的、音声的な音楽性が強調されたのである。この音楽性が、身体や声のつや、強度、身ぶり性、リズムなどという流体モデルと深い関わりを持っている特性に、つながりを持っていることは言うまでもない。空海は活動のあらゆる領域で、流体土木の技術知を実践しようとした。そして、そのもっとも壮麗で、もっとも手の込んだ表現が他ならぬ真言密教であった。それは密教が意識の力をめぐる流体学的な技術知であるからだ。密教は自然状態にある意識の能産性の現場に、記号や象徴による媒介の手を借りずに素手のまま直接おりたっていこうとするプラティックな思想である。もちろん、密教も仏教思想のひとつの形には違いないから、言葉や様々な記号が織りあげる言語的リアリティーとも共通している。仏教はこの世界をたえまのない変様の場(フィールド)として捉えている。
 この世界にあるいかなるものもことも、それ自体の同一性を保ったまま存在しているものなど、ひとつとしてないのだ。どんなものもことも、無限の連鎖のなかでたえまなく変様を続けている場(フィールド)に生起する出来事として、それ自体の実体性を持っていない。私達の身体も含めた無限変様の場はすぐそこにあるのに、あたりまえにしているだけではもはや捉えられないものになってしまう。そこで仏教思想はその事をはっきりさせる為に、様々なテクニックを開発して来たのである。
 哲学的ディスクールを使うやり方では、そのラジカルさにおいて、中観仏教の右に出るものはないだろう。中観仏教の論争技法がその後の仏教思想全体に大きな影響を与えた事はよく知られている。中観仏教、特に竜樹の「中論」が、焦点を合わせたのは、言語の「S+V」構造(主語や動詞構造)である。このうちS(主語)は、この世界から名辞の単位を切り出してくる動きをする。Sのおかげで「私」「木」「山」などが、同一性を持った不連続な単位として捉えられる様になる。だが、私達の知覚は、一方ではこの世界をたえまない変様の場として経験し続けている。この世界に「静止」の相を持ち込むSの体系は必然的にパラドックスを産み出さざるを得ない事を、経験が教えている。
 そこで、Sが世界に「静止」の相を持ち込んだそのとたんに、言語は「動態」を表示するVを求めることになる訳である。それがこの世界のリアリティーなのだと教え込もうとする訳だ。だがそれは幻影だ、と中観仏教は主張するのである。そこで本当に起きているのは無限変様の場たるありのままの世界を「S+V」、つまりは「静止+動態」の弁証法的構造にすりかえてしまうという大掛かりな隠ぺいに他ならない。この地点から、中観仏教は他の一切の哲学的ディスクールの徹底的な解体作業にとりかかるのである。
 竜樹が「中論」で駆使した論理は、この世界が実体を持っていると主張する様な一切の哲学的ディスクールが、最終的に「S+V」のシンタックス構造と同型の構造に還元でき、それらの論理が結局のところは、たえず連動し、変化してやまない世界に「静止」の相を持ち込もうとするニヒリズムから逃れられない、という事を暴くやり方を取った。
密教は、仏教思想の自然主義化の企てである。それは無意識に始まり言語的意識にまで至る心的現象の全領域が(仏教は精神分析学に先駆けて「無意識は既に言語の様に構造化されている」ことを明らかにしている、主体の形成と外の世界の構成へ向かおうとする二元論化の力の萌芽に満たされていることを批判的に取り出したり、或いはどんなに朽みな論理の形式を編み出してみても、無限変様の場たるありのままの「空」の世界を説明する事はおろか、そこに触れることすらできないことを、パラドキシカルに証明してみせるだけでは満足できないのである。密教の企てはもっとプラグマティックなのだ。密教は、考えれば考え込む様、恐ろしい混純の様に思えてくる自然状態に放置されたままの意識の場に、直接おりたってゆく為の技術知の様なものを探ろうとしている。(言語の様に構造化されたアーラヤ識としての無意識を、更に突き抜けたところに現れるこの自然状態の意識は自らのなかに能産性をみなぎらせている。密教はその能産的自然のなかに入り込んでゆく。密教が仏教思想の自然主義化の企てだと言うのはその為である。
 密教は、非インド、ヨーロッパ語的でさえある。この事は、自然主義的で流体的だと言うこととも、深い継りを持っている。もともと仏教思想は、優れてインド・ヨーロッパ語的な特徴を持つインド哲学に取り囲まれ、そのなかの異端思想として発達を遂げてきた。よく知られている様に密教(タントラ仏教)はこういう仏教思想と土着文化との接触や混交のなかから産まれてきたものだ。非インド・ヨーロッパ語的なそれら土着文化においては、シンタックスの強力な構造が欠如していることもあって話者の同一性や対象世界の客観性などを作りあげる、言語の超越論的地帯に対する神経症的な程、切実な意識は、素直に受け入れにくいものだったのだろう。
 密教の場合に大切なことは、言語的な意識が恐れ隠ぺいする無限変様の場(フィールド)として、身体に注目したという点だ。身体は無限なのだ。その身体の無限に直接踏み入っていく通路を見つけ出すことなのである。いわゆる「マンダラの思想家」としての空海よりも弘法伝説の描く流体土木の技術者としての空海の方に魅力を感じているのは、その為だ。空海の密教思想は意識をめぐる流体土木的な技術知を反映したものである。その技術知が辿りつく「意識の自然」のありさまをしめるモデルがマンダラであり、そのマンダラは流体力学とも深いつながりを持つ、無数の渦と怪物曲線の作りなすフラクタル空間を、潜在的な「下絵」として隠し持っている。
 その意味では空海にとっての真言密教は、流体モデルをもとにする思考の、もっともスマートな表現たり得たのである。だが、その空海の思想を怪物的な「下絵」を塗り込めてしまった上に描かれたホーリスティックなマンダラ図をめぐる解釈学に集約してしまうとき、流体知としての真言密教のはらむラジカルな可能性は、私たちの前から遠ざかっていってしまう。マンダラの「下絵」はむしろ、伝説の弘法大師によっておびただしい溜池を掘り抜かれた讃岐平野の光景のなかに、潜んでいるのだ。
 空海は、だから言って見れば平らな石材の面という面を細かい渦巻きや怪物的な曲線でおおい尽くし、均質な表面をディテールで征服してまわっていたバロックの工人(メーソン)のような人だ。その彼が磨きあげようとしたものが渦や乱流を基本モデルとする流体学的な密教思想であった、というのは決して偶然ではないだろう。
posted by master at 00:00| Comment(0) | Episode
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