2016年02月06日

Episode1 南方曼陀羅

〜地球は一つ。されど己が棲む処で、それを促えよ〜


1867年、紀州和歌山市にて、南方熊楠誕生。

氏は柳田国男と共に我国の民俗学の草始者である。

この二人は、その学問の方法、その思想的出自と経歴においても、いたく対照的である。

日本の学問の未来の創造可能性を考える為に、この二つの巨峰を我々は己の力爾において登り比べてみる事は有益なるものであるだろう。

氏は学問の目標を次の様に語った。

「幼年より真言宗(自分の)に固着し、常に大日(如来)を念じおり、何とぞ今の日本に存ずる一向(真宗)、日蓮等の「俗向き」のものの外に超出して、天台、真言等の哲学を日本に興隆し、他日、世界中の人が我国を一つのアレキサンドリアとして就学せしむる様、致したし…。」

そして、その為には「第一に仏法を外国人に知らしむるは、日本人の特色を示す事にて、従って甚だ我国に益あることに候が、それをなすには、小乗の例の耶蘇教めきたる戒律などは、フフンそんな事か、ちと耶蘇教に似ているくらいの事で一向に役立たず、これを医するの一方は大乗教の審蜜高遠なる哲学を外国人に示すより他無きが、是が成れば実にえらいことと申すべし。」


南方は、仏教、とくに大乗仏教を諸宗教のうち最も優れたものと信じたが、同時に他宗教に対しても寛容な態度を保持した。

そこで彼が開陳したのは、ヨーロッパの思想や学問が「普遍性」を揚げているが、それは西ヨーロッパという「局地」における「普遍性」である。インドや中国や日本やアフリカなど非西欧地域の思想や学問が、ヨーロッパを包摂することによってはじめてより高次の普遍性に立つことは出来る、という考えであり、こうした考えが、19世紀末(1800年)のイギリスに留学していた日本人の頭にあったことを一つの「驚異」と見る。

これは、アジアでもアフリカでもラテンアメリカでも、そしてヨーロッパでも20世紀の後半に、やっと台頭してきた自覚なのである。

現在に於いては「米国」に是を当刻すれば、より現実味を帯びて、その意味たるや鮮明となるであろう。


南方は宇宙には事不思議・物不思議・理不思議があるという。近代科学が比較的うまく処理しつつあるのは、物不思議である。

数学や論理学は事不思議を解くが、形式論理学では複雑な事不思議を十分に解明することはできない。心不思議・理不思議に至っては近代科学では、まだ判らないところが多い。

当店掲示の「南方曼陀羅」は世間宇宙の全ての現象、及び事物の相互関連の道筋(理)を示したものであって、その道筋は無限であるが、「どこ一つとりても、それを敷衍追求するときは、何如なる事も成し得る様になっておる。」という。科学の基本原理は因果律である。因果律とは「ある結果があれば、必ず原因がある」という事である。因果律が成立するのは、物の世界に於いてのみである。

心の世界の事は、心理学の分野だが、その形而上学的心界では確かに働いている因果律が成立するのかどうかは疑わしい。「物の力を起こさしめて生ずるものが事」であるが、この事の世界ではどの様な法則が働いているのかを極めたい、というのである。この「事」の世界を南方は「心物両界連関作用」と呼んでいる。

又、南方の比較宗教論の中で仏教がキリスト教よりも優れているのは、現代の(南方の時代)の化学により適合するからである。何故ならば、仏教がキリスト教より優れている事を示す為の最良の方法は、仏教が「天部の神界に超絶せるの界を示せるものなれば、有神を唱うる徒も実は仏教の一部を得たる者なり。されば仏者の至穏至便の法としては、神もまたあるものとして包蔵し、ただ、この上に超出するの法あることを説けば可なり。これを成すには、諸外教のことを知るは必要なり。」


仏教はキリスト教よりも二つの点で近代科学と整合する。

第一は、キリスト教は諸々の現象を「神意」によって説明するが、仏教は「輸廻因果」によって説明する。仏教でいう「因果輪諧廻」はものごとを原因結果の相関関係で捉える近代科学の方法に近い。

宗教の優劣をきめるもう一つのものさしがある。

「西洋の耶蘇教の特色として私のもっぱら賛称するのは、その平権自由と申す一事に御座候」という。

人間の平等ということにかけては、近代のキリスト教の方が近代の仏教よりも上等であるという判定である。しかし仏教よりも、キリスト教よりもまさっているのはジャイナ教である。キリスト教は人類の平等を説くが、ジャイナ教はその上に生類の無差別を主張し、実践する点でより優れているのだと南方は評価した。

マックス・ウェーバー(1864〜1920)が比較宗教社会学の雄大な研究に着手したのは、1911年。南方がロンドンを去って十年余り後である。その「合理性」を尺度としてヒンズー教・仏教・儒教・道教・古代ユダヤ教等の諸宗教を比較し、プロテスタンティズムのキリスト教が最も「合理化された」宗教形態である。としたのに対して、南方は、化学との一致を尺度として、大乗仏教を最も優れた宗教原理とした。もし、南方が土宣法竜宛書簡で描いた壮大な企画を達成していたならば、ウェーバーと比較することのできる比較宗教論を我々はもう一つの大きな遺産として持ち得ただろう。


「南方曼陀羅」は南方の学問の密教的側面であり、粘菌研究は南方の学問の顕教的側面であるということができる。この顕密両面が連動して南方の比較民俗学が成立した。

「南方曼陀羅」は彼の理論体系のモデルであるが、それは抽象的仮説命題の体系を伴わない絵図(モデル)なのである。それは、その絵図からはみ出したところに、宇宙の全体像が実在するという信念〜宗教〜に支えられている。

南方は「南方曼陀羅」に捕らわれたのではないか?

あまりに多くのまばゆい程の大小の発見に心を奪われ、ひき裂かれたのではなかったか?

様々な独創的な思想、及び理論への可能性を孕む南方曼陀羅の結び目を解いて、辛抱強く展開してゆく仕事は我々読者のものであるようだ。


講談社学術文庫〜鶴見和子著『南方熊楠』より抜粋〜

文中、抜粋者の挿入文有り。
posted by master at 15:24| Comment(0) | Episode
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