2016年02月08日

Episode6 六大無碍にして常に瑜伽也

 空海は「金剛頂経」、「大日経」、「菩薩心論」、において、即身成仏の説がはっきり書かれていると言う。それを説明する為に、自分で偈(げ)をつくり、即身の偈と成仏の偈を つくっている。彼の数ある著作物の一つ▣「即身成仏義」には、前半の即身の偈はこうなっている。

 六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり
 四種曼茶(ししゅまんだ)各(おのおの)離れず
 三密加持(さんみつかじ)すれば速疾(そくしつ)に顕(あらわ)る
 重々帝網(たいもう)なるを即身と名づく

優れた密教者の梅尾祥雲(とがのおしょううん)博士の訳は、
※六大をもってあらわす法界(あめつち)の体性(いのち)はこれをさまたげるものなく常に瑜伽(とけあ)っている。
 四種の曼茶羅(さとりのよ)の真実の相は、かれこれたがいに関連して相離れない。
 仏と凡夫(よのひと)との三つの神秘の作用(はたらき)が互いに加持するが故に速やかに悉地(かないごと)をあらわす。
 あらゆる一切の身が互いに重々に円融(とけあい)して恰(あたか)も帝釈天の珠網の如くなるを即身(そのみ)と名づく。※

「六大無碍にして常に瑜伽なり」の六大というのは、地、水、火、風、空に識、つまり心を加えたものです。五大はいわば物理的原理です。それによって世界は成り立っていると考えるのですが、それに心という精神的原理を加えて六大と呼んでいる訳です。一般に仏教では、物理的原理と精神的原理は別のものだと考えられています。
 しかし密教では、識、精神的原理が五大、物理的原理に含まれている。逆にいうと識もまた五大をもっていると考える。大変、象徴的な意味をもっている。
 
 地:すべてのものの支えになっている。
 水:すべての言葉を潔めている。
 火:すべての欲望を焼き尽くす。
 風:すべての対立を吹き払う。
 空:果てしなく大きいものである。

識の原理をそれ自身にもっている。あらゆる世界、仏も衆生もすべて六大が互いに混じり合って成り立っている。
 我々人間の体も窒素とか酸素とか水素といった地球の成分と同じもので成り立っている。

こういう現代科学が発見した真理を、ここで密教は語っている。とすれば、すべては本来平等なものだ。仏も人間も六大によってつくられているのだから、すべては相通じあっていることになる。
 次に「四種曼茶各離れず」。曼茶すなわち曼荼羅というのは宇宙の真相をあらわす智慧ですが、その曼荼羅には四種類がある。

 大曼荼羅:仏、菩薩を形であらわしたもの。
 法曼荼羅:それを梵字であらわしたもの。
 三昧耶(さんまや)曼荼羅:仏菩薩の持ち物をあらわしたもの。
 羯摩(かつま)曼荼羅:その仏菩薩が活動するさまをあらわしたもの。

この四つの世界が各々互いに混じり合っている。
 次の「三密加持すれば速疾に顕る」。ここに、この偈の根本があるのです。身密、語密、意密、つまり、身・言葉・心、これを三密という。我々の三密と仏の三密とはもともと同じもの故、我々の三密を通して仏を呼び寄せることができると考える。
 加持の「加」というのは、本来の意味は、衆生に仏の力が加わってくる。
そして衆生はそれを持ち続けているという意味です。そうする事によって、我々は仏と同じようになり、仏と同じような力を発揮できる。これが密教の中心の思想で、それを教典では次のように言っています。
 梅尾博士の訳を読みます。
※すなわち授戒の羯磨(こんま)(作業)を具足しおわって阿闍梨は普覧金剛菩薩の三摩地(こころまとめ)に入りて弟子を加持(ちからぞえ)し、その弟子の身中に金剛菩薩を引入して自ら金剛菩薩たらしめるのである。かくてこの加持の威徳力によるが故に須(しば)らくの間において、その弟子は無量の三昧耶(ちかい)、無量の陀羅尼法門を身につける事ができるのである。
 また阿闍梨がこの弟子を加持する不思議の法力によるが故に、よく弟子の心の習気(うつりが)と倶に生ずる我執の種子を変易して菩提(さとり)の功徳たらしめ、そのときに応じて弟子の身中に、一大無数刧(かずかぎりなきとり)の間に積み重ねうべき無量の福徳と智慧とを集める事ができ、そこで初めて仏の家庭に更正することになるのである。※

 これが密教にいう即身成仏の仏の真義だと空海は言う。また、このようにも説明しています。
加持というものは、「如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と日い、行者の心水、能く仏日を感ずるを持と名ずく」ものである。
 仏の方からは加と言い、衆生の方からは持ちと言う訳です。それによってその身そのまま仏になれるというのが密教の教えの根源です。
 最後の「重々帝網なるを即身と名ずく。」つまり重々に帝釈天の網の様にお互いが映しあっている。というふうに空海は説明しています。これは華厳の思想で小さい世界の中に無限の世界が映されているという考えです。密教は華厳の影響を受けています。そいsて偈の後半の成仏の句はこうなっています。

 法然に薩般若(さはんにゃ)を具足して
 心数心王刹塵(しんじゅしんのうせつじん)に過たり
 各五智無際智(おのおのごちむさいち)を具す
 円鏡力(えんきょうりき)の故に実覚智(じっかち)なり

一切を包み一切を貫く本初の仏は、法爾自然(ほうにじねん)に薩般若(あらゆるちえ)を具(ぐ)して不足なし、その本初心の表現たる各々の衆生は各々に心王心数ありて刹塵に過ぎたり、その心識をそのままが転じて智となるが故に各々に五智と無制限の智とを具して欠くることなし、とその智を以って一切を現じ一切を照らすこと、円鏡力の如くなるとき、真実覚智の仏となる。我々は自然に薩般若という妙智を具足している。我々の心は本来の大日如来の心と同じであり、無限に変化しその五智の心がそれぞれに五智無際智を備えている。この五智は真言で五智如来とよく言うのですが、密教における智の重要性を表すものです。
 大日如来を中心として東西南北の四つの如来に五つの智が配されている訳です。

 東:大円鏡智:鏡の如く全てのものを明らかに映す智慧を持つ。阿閦如来
 南:平等性智:平等に世界を見る智慧を持つ。宝生如来
 西:妙観察智:よくものを観察する智慧を持つ。無量寿如来
 北:成所作智:実践的な智慧を持つ。不空成就如来

そして真ん中に法界体性智という最高の智慧を持つ毘虜遮那、大日如来がどっしりと座っている。
 そういう智慧が密教の行をすれば身に授かるというのです。「円鏡力の故に実覚智なり」。この大日如来と同じ境地に立ってすべてをしっかり見る。そういう智慧を持った仏そのものに成れるというのが「即身成仏義」の真義であると思います。
 ▣「声字実相義」とその解釈
 これもまた、空海はその大意を述べて、次にその教典を説明して、空海独特の解釈を行うという形をとっています。声字実相というのは、言葉通り「声」、それを表現する「字」、そしてその対象を表す「実相」という三つの言葉からなっています。すべてのものには響きがあり、響きは必ず字によって表されるという。
 声字と実相との関係にも様々な関係があり、浅い解釈から深い解釈まであり、この関係を説いた教典として「大日経」を挙げ、その偈を説明している。
 原文と梅尾訳を挙げてみます。
 
 等正覚の真言の
 言名成立の相は
 因陀羅衆の如くにして
 諸の義利成就せり

※全てを正しく覚れる仏の真言の言(字)と名と成立(句)との相は、あたかも帝釈の声明論の宗の如くに、一つ一つに、諸の義理を成就す。※

 この等正覚というのが「実相」であって、真言というのは「声」、言名成立というのが「字」である。
また、「大日経」には、「阿」という一字の声字の中に実相が表現されているという「阿字観」が説かれている。
 そして例によって、空海自ら偈を作り、真言密教の根本教説である声字実相の義を説明しようとしているのです。

 五大にみな響きあり
 十界に言語を倶す
 六塵ことごとく文字なり
 法身はこれ実相なり

水には水の響きがあり、地には地の響きがある。このように五大の世界は声響から成り立っているということです。
 「十界に言語を倶す」というのは、上の方から仏界、菩薩界、緑覚界、声聞界天界、人界、阿修羅界、傍生界(畜生界)、餓鬼界、捺落迦界(地獄界)の十界です。そういう十の世界が有って、それぞれ言語があり、それぞれの表現様式を持っているという。そのうち、仏界の言語、それだけが真実であって、あとの九つの世界の言葉は虚妄です。
 この仏の世界の言語を真語・実語・如語・不誑語・不異語という。これがいわゆる「真言」です。この真言は諸法の実相を謬らず妄らずに示しているという訳です。
 「六塵ことごとく文字なり」。六塵というのは色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵をいう。
 初めの五塵は感覚的世界です。法塵いうのは物質的世界です。この内的世界も外的世界も全て文字を備えているという。文字というのは具体的な文字というよりもあや、様々な変化を持っているという訳です。
 

 「法身はこれ実相なり」
哲学的な言葉でいうと、この世界はすべて表現的世界であるという訳です。山も川も人間も動物も植物も全部自分を表現しようとしている。それがそのまま仏の世界であり、それが真実の世界であるということです。
 特筆すべきは、空海の作った自分の偈を、さらにまた、自作の偈によってこの六塵というものを説明しようとしているということである。

 顕形表等の色あり
 内外の依正に倶す
 法然と随縁とあり
 よく迷いまたよく悟る

つまり、顕色・形色・表色が有って、顕色とは我々が実際に見ている色のことです。密教では、その顕色に様々の象徴的意味を付している。形色とは、四角とか円とかのものの形です。そして、この色と形が色々に動くこと、「取捨屈申行住坐臥」というような行動を起こすこと。それが表色です。

 「内外の依正に具す」。そういう顕・形・表の色が内の世界に備わっている。依正というのは、そういう内色と外色がそれぞれ主となったり、客となって互いに関係し合っていることです。

 「法然と随縁とあり」。法身は本来の世界である。それと同時に報身や応化身、或は等流身と状況に応じてあらわれる。三種の色が自分の内面、外面に混じり合い混全様々にあらわれる。これが世界の真相である。
 その色の世界に愚かな人は迷い、賢い人はそれを悟るという。愚かな人はその色にとらわれてしまい迷い苦しみを得るが智慧のある人は個々のとらわれから脱して色の世界全体として眺めそこから超越した自由な心でその色の世界で遊ぶことができる。空海の言いたいことはそういうことである。

▣「吽字義」とその解釈
 「即身成仏義」「声字実相義」の二冊の本の解釈をとおして、真言密教の奥義をお話ししました。
もう一つ、その奥義を語るものに「吽字義」という本があります。空海は晩年に「般若心経秘鍵」という本を書いています。その中で、
 「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く一字に千理を含み、即身に法如を証す」。と言っています。しかし、一体真言というのは何かということになると、やはりこの「吽字義」を紐解かなければならないということになります。空海にとって言葉は大変神秘的な働きを持っているのでサンスクリットの「吽」(hum)という一字によって、そういう神秘的世界を表現するすることが、この「吽字義」のテーマです。日常的表現とは違うため、梅尾祥雲博士はこのように言っておられます。
※その真言陀羅尼と世間普通の言語文字との間に、いかなる差異が存在するのかというと、世間普通の言語文字思想を知的に伝達する用具として一相一義を基調とし、その限定せられたる一意一義の言語文字を量的に多く連結して種々様々の方面から総合的にその内容を了解せしめんとするに反し、真言陀羅尼は量的にその語の多きを要せず、むしろ質的にその体験内容を如実に象徴しうる特殊の言語文字を択び、その特殊の言語文字における意義を門としてその義に徹するように、深く内容を掘り下げ、それによりて暗示せられる背景としての無限性を全体に感味し体得し把握するところにあるのである。※
 ここで空海は「吽」という一字をもってこの世界の全体としての真実を明らかにしようとする。
「阿」字でもって世界全体の真実を象徴的に説明する阿字観は真言密教では広く行われる観行です。ところが空海は阿字ばかりでなく吽字で世界全体を説明しようとするわけです。
 「瑜祇経」には※真言の法を誦持するとき、一つの計らいの心に住すると、そこに障りが便りを得、真言師の功徳を奪うことになる。そのとき愛染明王の根本一字心たる吽字を誦持せば、その障りたちまちに消滅するべし。すなわち常に自心において、一の吽字の声を感ぜよ、声は出入りの命息に従って身と心を見ず大虚空に等うして金剛堅固の身となる。※と語られている。
 吽字を感(観)ずると、結局自分の個別的な身中心を離れて大虚空に等しい金剛堅固の身となるという意味です。また、不空の「般若理趣釈」(理趣釈経)の中にも、この吽字義が説かれているのです。※「吽字とは因(Hetva)の義である。その因とは覚り(Bodhi)であり、一切如来の真実の妙体である。あらゆる功徳はみなここから生ずるので、この一字に四字の義がある。すなわち、それは訶(Ha)字をもって本体としているが、その訶字は阿(A)より生じたものである。阿字は一切法の本より不生なることを示すものなるが故に、訶字を以ってする一切法の因は不可得である。その訶の下に汗(u)点がある。汗点は一切法の損滅(una)の不可得なることを示すのである。また訶字の上に円点がある。それは摩(Ma)字である。摩字は我(Atma)の義であり、不可得の義である。※空海は「瑜祇経」と「般若理趣釈」によって説かれた吽字義の説を更に発展させたと言えます。この「般若理趣釈」は最澄が空海に貸出を求めたが断って二人の間に決裂の原因を生じせしめた本なのです。やはり、真言密教の奥義が書いてある為理論だけでは説明できない体験によらなくては体得することがままならぬ神秘的な智慧を最澄のような合理的理性では良く理解できないのではないかという厳しい批判が隠されていたように思います。
 また空海が書いた「秘蔵記」の中には恵果の言葉として「吽字は阿、訶、汗摩、の四字から成っている。訶字は一切諸法が因縁により生ずる義であり、また浄菩提心のことである。汗字は空の義、また損滅の義であり、摩字は有の義また増益の義である」。とあり、吽字義の秘義を空海は恵果から学んできたことがうかがえます。それは両部曼荼羅の秘義というものと関係しているのだろうと思われます。

▣阿字観と汗字観
 空海の解釈の中心は汗字と摩字の二つに置かれています。それが空海の「吽字義」の大きな特徴ではないかと思われます。
 ※あらゆる一切の言語を聞くとき直ちにその中に阿(A)の声の存するを知る。その如くにあらゆる一切の法が因縁より生ずるを見るとき、その中に本初不生の際限としての実義の存するを見るのである。もしその本物の不生なる際限を見るに至ればそれは実の如くに自心を知ることになるのである。この実の如くに自心を知る事が出来れば、それが即ち一切智々でそれを体現せるものが大日如来である。そこでその深義を示さんが為に大日如来は阿(A)の一字をもって自らの真言とせられているのである。※と言うふうに空海は語っていますが、こうした肯定的な阿字観よりは、否定的な汗字観の方を重視したのです。
この汗字観によって、空海は真言密教以外のあらゆる立場を比較して、若い頃に書いた「三教指帰」に始まり、「秘密曼荼羅十住心論」「秘蔵宝論」によって、儒教、道教ばかりか様々な仏教、声聞、縁覚、という小乗仏教や、三論、法相、天台、華厳といった大乗仏教をも批判しました。そういう低い段階の真理から高い段階の真理にいたる弁証法的思惟は空海に大変、特徴的なものです。  低い段階の智慧は損減が大きい。大日如来の智慧を損減させようとしても大日如来の智慧はびくともしない。そういう損減という概念を使って教義の発展史を叙述しているのです。
 これは方法においてヘーゲルの弁証法的な意識の発展という考え方があるのだが、その説いている教えの内容はニーチェの思想に近いともいえる。空海が言うように、密教は大日如来の教えであり、龍猛、龍智、金剛智、不空、恵果を経て空海に伝わったものであるが、密教思想この様に精密にし、しかも甚だ哲学的な教義体系に仕上げた人物は居ない。まさに空海は聖徳太子を除けば、日本仏教の歴史において初めて顕れた創造的な思弁をもつ体系的思想家であったと言えるのである。
 以上、かなりの量と長文となりましたが、いずれも哲学者 梅原猛氏による著作、「空海の再発見―密教の幻惑」よりの抜粋で掲載者の再構成によるものです。
 この著作に寄せて解説者である宮坂宵勝大氏(真言宗智山泒菅長、総本山智積院化主、名古屋大学名誉教授)は、著者のいう「山川草木悉皆成仏」の天台本覚論はもちろん、最澄、空海の共通項である「草木成仏」として具現化されている。その点からしても、今日の日本仏教の骨格は、鎌倉時代にほぼ出来上がったといっていい。更に天台の本覚思想、真言の即身成仏、親鸞の浄土信仰のいずれも縄文期以来の日本人の思想、即ちあの世とこの世の区別、精霊の永続性などが基底をなすと著者はみる。仏教の教学を上部構造とすれば、下部構造には「山川草木悉皆成仏」あるいは神仏の垂迹的な同体化が認められる。著者の総合的研究に基づく鋭い直観力や散りばめられた創見は、他の研究者には殆ど見られない。と結んでいる。
posted by master at 12:54| Comment(0) | Episode