2016年02月08日

Episode6 六大無碍にして常に瑜伽也

 空海は「金剛頂経」、「大日経」、「菩薩心論」、において、即身成仏の説がはっきり書かれていると言う。それを説明する為に、自分で偈(げ)をつくり、即身の偈と成仏の偈を つくっている。彼の数ある著作物の一つ▣「即身成仏義」には、前半の即身の偈はこうなっている。

 六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり
 四種曼茶(ししゅまんだ)各(おのおの)離れず
 三密加持(さんみつかじ)すれば速疾(そくしつ)に顕(あらわ)る
 重々帝網(たいもう)なるを即身と名づく

優れた密教者の梅尾祥雲(とがのおしょううん)博士の訳は、
※六大をもってあらわす法界(あめつち)の体性(いのち)はこれをさまたげるものなく常に瑜伽(とけあ)っている。
 四種の曼茶羅(さとりのよ)の真実の相は、かれこれたがいに関連して相離れない。
 仏と凡夫(よのひと)との三つの神秘の作用(はたらき)が互いに加持するが故に速やかに悉地(かないごと)をあらわす。
 あらゆる一切の身が互いに重々に円融(とけあい)して恰(あたか)も帝釈天の珠網の如くなるを即身(そのみ)と名づく。※

「六大無碍にして常に瑜伽なり」の六大というのは、地、水、火、風、空に識、つまり心を加えたものです。五大はいわば物理的原理です。それによって世界は成り立っていると考えるのですが、それに心という精神的原理を加えて六大と呼んでいる訳です。一般に仏教では、物理的原理と精神的原理は別のものだと考えられています。
 しかし密教では、識、精神的原理が五大、物理的原理に含まれている。逆にいうと識もまた五大をもっていると考える。大変、象徴的な意味をもっている。
 
 地:すべてのものの支えになっている。
 水:すべての言葉を潔めている。
 火:すべての欲望を焼き尽くす。
 風:すべての対立を吹き払う。
 空:果てしなく大きいものである。

識の原理をそれ自身にもっている。あらゆる世界、仏も衆生もすべて六大が互いに混じり合って成り立っている。
 我々人間の体も窒素とか酸素とか水素といった地球の成分と同じもので成り立っている。

こういう現代科学が発見した真理を、ここで密教は語っている。とすれば、すべては本来平等なものだ。仏も人間も六大によってつくられているのだから、すべては相通じあっていることになる。
 次に「四種曼茶各離れず」。曼茶すなわち曼荼羅というのは宇宙の真相をあらわす智慧ですが、その曼荼羅には四種類がある。

 大曼荼羅:仏、菩薩を形であらわしたもの。
 法曼荼羅:それを梵字であらわしたもの。
 三昧耶(さんまや)曼荼羅:仏菩薩の持ち物をあらわしたもの。
 羯摩(かつま)曼荼羅:その仏菩薩が活動するさまをあらわしたもの。

この四つの世界が各々互いに混じり合っている。
 次の「三密加持すれば速疾に顕る」。ここに、この偈の根本があるのです。身密、語密、意密、つまり、身・言葉・心、これを三密という。我々の三密と仏の三密とはもともと同じもの故、我々の三密を通して仏を呼び寄せることができると考える。
 加持の「加」というのは、本来の意味は、衆生に仏の力が加わってくる。
そして衆生はそれを持ち続けているという意味です。そうする事によって、我々は仏と同じようになり、仏と同じような力を発揮できる。これが密教の中心の思想で、それを教典では次のように言っています。
 梅尾博士の訳を読みます。
※すなわち授戒の羯磨(こんま)(作業)を具足しおわって阿闍梨は普覧金剛菩薩の三摩地(こころまとめ)に入りて弟子を加持(ちからぞえ)し、その弟子の身中に金剛菩薩を引入して自ら金剛菩薩たらしめるのである。かくてこの加持の威徳力によるが故に須(しば)らくの間において、その弟子は無量の三昧耶(ちかい)、無量の陀羅尼法門を身につける事ができるのである。
 また阿闍梨がこの弟子を加持する不思議の法力によるが故に、よく弟子の心の習気(うつりが)と倶に生ずる我執の種子を変易して菩提(さとり)の功徳たらしめ、そのときに応じて弟子の身中に、一大無数刧(かずかぎりなきとり)の間に積み重ねうべき無量の福徳と智慧とを集める事ができ、そこで初めて仏の家庭に更正することになるのである。※

 これが密教にいう即身成仏の仏の真義だと空海は言う。また、このようにも説明しています。
加持というものは、「如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と日い、行者の心水、能く仏日を感ずるを持と名ずく」ものである。
 仏の方からは加と言い、衆生の方からは持ちと言う訳です。それによってその身そのまま仏になれるというのが密教の教えの根源です。
 最後の「重々帝網なるを即身と名ずく。」つまり重々に帝釈天の網の様にお互いが映しあっている。というふうに空海は説明しています。これは華厳の思想で小さい世界の中に無限の世界が映されているという考えです。密教は華厳の影響を受けています。そいsて偈の後半の成仏の句はこうなっています。

 法然に薩般若(さはんにゃ)を具足して
 心数心王刹塵(しんじゅしんのうせつじん)に過たり
 各五智無際智(おのおのごちむさいち)を具す
 円鏡力(えんきょうりき)の故に実覚智(じっかち)なり

一切を包み一切を貫く本初の仏は、法爾自然(ほうにじねん)に薩般若(あらゆるちえ)を具(ぐ)して不足なし、その本初心の表現たる各々の衆生は各々に心王心数ありて刹塵に過ぎたり、その心識をそのままが転じて智となるが故に各々に五智と無制限の智とを具して欠くることなし、とその智を以って一切を現じ一切を照らすこと、円鏡力の如くなるとき、真実覚智の仏となる。我々は自然に薩般若という妙智を具足している。我々の心は本来の大日如来の心と同じであり、無限に変化しその五智の心がそれぞれに五智無際智を備えている。この五智は真言で五智如来とよく言うのですが、密教における智の重要性を表すものです。
 大日如来を中心として東西南北の四つの如来に五つの智が配されている訳です。

 東:大円鏡智:鏡の如く全てのものを明らかに映す智慧を持つ。阿閦如来
 南:平等性智:平等に世界を見る智慧を持つ。宝生如来
 西:妙観察智:よくものを観察する智慧を持つ。無量寿如来
 北:成所作智:実践的な智慧を持つ。不空成就如来

そして真ん中に法界体性智という最高の智慧を持つ毘虜遮那、大日如来がどっしりと座っている。
 そういう智慧が密教の行をすれば身に授かるというのです。「円鏡力の故に実覚智なり」。この大日如来と同じ境地に立ってすべてをしっかり見る。そういう智慧を持った仏そのものに成れるというのが「即身成仏義」の真義であると思います。
 ▣「声字実相義」とその解釈
 これもまた、空海はその大意を述べて、次にその教典を説明して、空海独特の解釈を行うという形をとっています。声字実相というのは、言葉通り「声」、それを表現する「字」、そしてその対象を表す「実相」という三つの言葉からなっています。すべてのものには響きがあり、響きは必ず字によって表されるという。
 声字と実相との関係にも様々な関係があり、浅い解釈から深い解釈まであり、この関係を説いた教典として「大日経」を挙げ、その偈を説明している。
 原文と梅尾訳を挙げてみます。
 
 等正覚の真言の
 言名成立の相は
 因陀羅衆の如くにして
 諸の義利成就せり

※全てを正しく覚れる仏の真言の言(字)と名と成立(句)との相は、あたかも帝釈の声明論の宗の如くに、一つ一つに、諸の義理を成就す。※

 この等正覚というのが「実相」であって、真言というのは「声」、言名成立というのが「字」である。
また、「大日経」には、「阿」という一字の声字の中に実相が表現されているという「阿字観」が説かれている。
 そして例によって、空海自ら偈を作り、真言密教の根本教説である声字実相の義を説明しようとしているのです。

 五大にみな響きあり
 十界に言語を倶す
 六塵ことごとく文字なり
 法身はこれ実相なり

水には水の響きがあり、地には地の響きがある。このように五大の世界は声響から成り立っているということです。
 「十界に言語を倶す」というのは、上の方から仏界、菩薩界、緑覚界、声聞界天界、人界、阿修羅界、傍生界(畜生界)、餓鬼界、捺落迦界(地獄界)の十界です。そういう十の世界が有って、それぞれ言語があり、それぞれの表現様式を持っているという。そのうち、仏界の言語、それだけが真実であって、あとの九つの世界の言葉は虚妄です。
 この仏の世界の言語を真語・実語・如語・不誑語・不異語という。これがいわゆる「真言」です。この真言は諸法の実相を謬らず妄らずに示しているという訳です。
 「六塵ことごとく文字なり」。六塵というのは色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵をいう。
 初めの五塵は感覚的世界です。法塵いうのは物質的世界です。この内的世界も外的世界も全て文字を備えているという。文字というのは具体的な文字というよりもあや、様々な変化を持っているという訳です。
 

 「法身はこれ実相なり」
哲学的な言葉でいうと、この世界はすべて表現的世界であるという訳です。山も川も人間も動物も植物も全部自分を表現しようとしている。それがそのまま仏の世界であり、それが真実の世界であるということです。
 特筆すべきは、空海の作った自分の偈を、さらにまた、自作の偈によってこの六塵というものを説明しようとしているということである。

 顕形表等の色あり
 内外の依正に倶す
 法然と随縁とあり
 よく迷いまたよく悟る

つまり、顕色・形色・表色が有って、顕色とは我々が実際に見ている色のことです。密教では、その顕色に様々の象徴的意味を付している。形色とは、四角とか円とかのものの形です。そして、この色と形が色々に動くこと、「取捨屈申行住坐臥」というような行動を起こすこと。それが表色です。

 「内外の依正に具す」。そういう顕・形・表の色が内の世界に備わっている。依正というのは、そういう内色と外色がそれぞれ主となったり、客となって互いに関係し合っていることです。

 「法然と随縁とあり」。法身は本来の世界である。それと同時に報身や応化身、或は等流身と状況に応じてあらわれる。三種の色が自分の内面、外面に混じり合い混全様々にあらわれる。これが世界の真相である。
 その色の世界に愚かな人は迷い、賢い人はそれを悟るという。愚かな人はその色にとらわれてしまい迷い苦しみを得るが智慧のある人は個々のとらわれから脱して色の世界全体として眺めそこから超越した自由な心でその色の世界で遊ぶことができる。空海の言いたいことはそういうことである。

▣「吽字義」とその解釈
 「即身成仏義」「声字実相義」の二冊の本の解釈をとおして、真言密教の奥義をお話ししました。
もう一つ、その奥義を語るものに「吽字義」という本があります。空海は晩年に「般若心経秘鍵」という本を書いています。その中で、
 「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く一字に千理を含み、即身に法如を証す」。と言っています。しかし、一体真言というのは何かということになると、やはりこの「吽字義」を紐解かなければならないということになります。空海にとって言葉は大変神秘的な働きを持っているのでサンスクリットの「吽」(hum)という一字によって、そういう神秘的世界を表現するすることが、この「吽字義」のテーマです。日常的表現とは違うため、梅尾祥雲博士はこのように言っておられます。
※その真言陀羅尼と世間普通の言語文字との間に、いかなる差異が存在するのかというと、世間普通の言語文字思想を知的に伝達する用具として一相一義を基調とし、その限定せられたる一意一義の言語文字を量的に多く連結して種々様々の方面から総合的にその内容を了解せしめんとするに反し、真言陀羅尼は量的にその語の多きを要せず、むしろ質的にその体験内容を如実に象徴しうる特殊の言語文字を択び、その特殊の言語文字における意義を門としてその義に徹するように、深く内容を掘り下げ、それによりて暗示せられる背景としての無限性を全体に感味し体得し把握するところにあるのである。※
 ここで空海は「吽」という一字をもってこの世界の全体としての真実を明らかにしようとする。
「阿」字でもって世界全体の真実を象徴的に説明する阿字観は真言密教では広く行われる観行です。ところが空海は阿字ばかりでなく吽字で世界全体を説明しようとするわけです。
 「瑜祇経」には※真言の法を誦持するとき、一つの計らいの心に住すると、そこに障りが便りを得、真言師の功徳を奪うことになる。そのとき愛染明王の根本一字心たる吽字を誦持せば、その障りたちまちに消滅するべし。すなわち常に自心において、一の吽字の声を感ぜよ、声は出入りの命息に従って身と心を見ず大虚空に等うして金剛堅固の身となる。※と語られている。
 吽字を感(観)ずると、結局自分の個別的な身中心を離れて大虚空に等しい金剛堅固の身となるという意味です。また、不空の「般若理趣釈」(理趣釈経)の中にも、この吽字義が説かれているのです。※「吽字とは因(Hetva)の義である。その因とは覚り(Bodhi)であり、一切如来の真実の妙体である。あらゆる功徳はみなここから生ずるので、この一字に四字の義がある。すなわち、それは訶(Ha)字をもって本体としているが、その訶字は阿(A)より生じたものである。阿字は一切法の本より不生なることを示すものなるが故に、訶字を以ってする一切法の因は不可得である。その訶の下に汗(u)点がある。汗点は一切法の損滅(una)の不可得なることを示すのである。また訶字の上に円点がある。それは摩(Ma)字である。摩字は我(Atma)の義であり、不可得の義である。※空海は「瑜祇経」と「般若理趣釈」によって説かれた吽字義の説を更に発展させたと言えます。この「般若理趣釈」は最澄が空海に貸出を求めたが断って二人の間に決裂の原因を生じせしめた本なのです。やはり、真言密教の奥義が書いてある為理論だけでは説明できない体験によらなくては体得することがままならぬ神秘的な智慧を最澄のような合理的理性では良く理解できないのではないかという厳しい批判が隠されていたように思います。
 また空海が書いた「秘蔵記」の中には恵果の言葉として「吽字は阿、訶、汗摩、の四字から成っている。訶字は一切諸法が因縁により生ずる義であり、また浄菩提心のことである。汗字は空の義、また損滅の義であり、摩字は有の義また増益の義である」。とあり、吽字義の秘義を空海は恵果から学んできたことがうかがえます。それは両部曼荼羅の秘義というものと関係しているのだろうと思われます。

▣阿字観と汗字観
 空海の解釈の中心は汗字と摩字の二つに置かれています。それが空海の「吽字義」の大きな特徴ではないかと思われます。
 ※あらゆる一切の言語を聞くとき直ちにその中に阿(A)の声の存するを知る。その如くにあらゆる一切の法が因縁より生ずるを見るとき、その中に本初不生の際限としての実義の存するを見るのである。もしその本物の不生なる際限を見るに至ればそれは実の如くに自心を知ることになるのである。この実の如くに自心を知る事が出来れば、それが即ち一切智々でそれを体現せるものが大日如来である。そこでその深義を示さんが為に大日如来は阿(A)の一字をもって自らの真言とせられているのである。※と言うふうに空海は語っていますが、こうした肯定的な阿字観よりは、否定的な汗字観の方を重視したのです。
この汗字観によって、空海は真言密教以外のあらゆる立場を比較して、若い頃に書いた「三教指帰」に始まり、「秘密曼荼羅十住心論」「秘蔵宝論」によって、儒教、道教ばかりか様々な仏教、声聞、縁覚、という小乗仏教や、三論、法相、天台、華厳といった大乗仏教をも批判しました。そういう低い段階の真理から高い段階の真理にいたる弁証法的思惟は空海に大変、特徴的なものです。  低い段階の智慧は損減が大きい。大日如来の智慧を損減させようとしても大日如来の智慧はびくともしない。そういう損減という概念を使って教義の発展史を叙述しているのです。
 これは方法においてヘーゲルの弁証法的な意識の発展という考え方があるのだが、その説いている教えの内容はニーチェの思想に近いともいえる。空海が言うように、密教は大日如来の教えであり、龍猛、龍智、金剛智、不空、恵果を経て空海に伝わったものであるが、密教思想この様に精密にし、しかも甚だ哲学的な教義体系に仕上げた人物は居ない。まさに空海は聖徳太子を除けば、日本仏教の歴史において初めて顕れた創造的な思弁をもつ体系的思想家であったと言えるのである。
 以上、かなりの量と長文となりましたが、いずれも哲学者 梅原猛氏による著作、「空海の再発見―密教の幻惑」よりの抜粋で掲載者の再構成によるものです。
 この著作に寄せて解説者である宮坂宵勝大氏(真言宗智山泒菅長、総本山智積院化主、名古屋大学名誉教授)は、著者のいう「山川草木悉皆成仏」の天台本覚論はもちろん、最澄、空海の共通項である「草木成仏」として具現化されている。その点からしても、今日の日本仏教の骨格は、鎌倉時代にほぼ出来上がったといっていい。更に天台の本覚思想、真言の即身成仏、親鸞の浄土信仰のいずれも縄文期以来の日本人の思想、即ちあの世とこの世の区別、精霊の永続性などが基底をなすと著者はみる。仏教の教学を上部構造とすれば、下部構造には「山川草木悉皆成仏」あるいは神仏の垂迹的な同体化が認められる。著者の総合的研究に基づく鋭い直観力や散りばめられた創見は、他の研究者には殆ど見られない。と結んでいる。
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2016年02月06日

Episode1 南方曼陀羅

〜地球は一つ。されど己が棲む処で、それを促えよ〜


1867年、紀州和歌山市にて、南方熊楠誕生。

氏は柳田国男と共に我国の民俗学の草始者である。

この二人は、その学問の方法、その思想的出自と経歴においても、いたく対照的である。

日本の学問の未来の創造可能性を考える為に、この二つの巨峰を我々は己の力爾において登り比べてみる事は有益なるものであるだろう。

氏は学問の目標を次の様に語った。

「幼年より真言宗(自分の)に固着し、常に大日(如来)を念じおり、何とぞ今の日本に存ずる一向(真宗)、日蓮等の「俗向き」のものの外に超出して、天台、真言等の哲学を日本に興隆し、他日、世界中の人が我国を一つのアレキサンドリアとして就学せしむる様、致したし…。」

そして、その為には「第一に仏法を外国人に知らしむるは、日本人の特色を示す事にて、従って甚だ我国に益あることに候が、それをなすには、小乗の例の耶蘇教めきたる戒律などは、フフンそんな事か、ちと耶蘇教に似ているくらいの事で一向に役立たず、これを医するの一方は大乗教の審蜜高遠なる哲学を外国人に示すより他無きが、是が成れば実にえらいことと申すべし。」


南方は、仏教、とくに大乗仏教を諸宗教のうち最も優れたものと信じたが、同時に他宗教に対しても寛容な態度を保持した。

そこで彼が開陳したのは、ヨーロッパの思想や学問が「普遍性」を揚げているが、それは西ヨーロッパという「局地」における「普遍性」である。インドや中国や日本やアフリカなど非西欧地域の思想や学問が、ヨーロッパを包摂することによってはじめてより高次の普遍性に立つことは出来る、という考えであり、こうした考えが、19世紀末(1800年)のイギリスに留学していた日本人の頭にあったことを一つの「驚異」と見る。

これは、アジアでもアフリカでもラテンアメリカでも、そしてヨーロッパでも20世紀の後半に、やっと台頭してきた自覚なのである。

現在に於いては「米国」に是を当刻すれば、より現実味を帯びて、その意味たるや鮮明となるであろう。


南方は宇宙には事不思議・物不思議・理不思議があるという。近代科学が比較的うまく処理しつつあるのは、物不思議である。

数学や論理学は事不思議を解くが、形式論理学では複雑な事不思議を十分に解明することはできない。心不思議・理不思議に至っては近代科学では、まだ判らないところが多い。

当店掲示の「南方曼陀羅」は世間宇宙の全ての現象、及び事物の相互関連の道筋(理)を示したものであって、その道筋は無限であるが、「どこ一つとりても、それを敷衍追求するときは、何如なる事も成し得る様になっておる。」という。科学の基本原理は因果律である。因果律とは「ある結果があれば、必ず原因がある」という事である。因果律が成立するのは、物の世界に於いてのみである。

心の世界の事は、心理学の分野だが、その形而上学的心界では確かに働いている因果律が成立するのかどうかは疑わしい。「物の力を起こさしめて生ずるものが事」であるが、この事の世界ではどの様な法則が働いているのかを極めたい、というのである。この「事」の世界を南方は「心物両界連関作用」と呼んでいる。

又、南方の比較宗教論の中で仏教がキリスト教よりも優れているのは、現代の(南方の時代)の化学により適合するからである。何故ならば、仏教がキリスト教より優れている事を示す為の最良の方法は、仏教が「天部の神界に超絶せるの界を示せるものなれば、有神を唱うる徒も実は仏教の一部を得たる者なり。されば仏者の至穏至便の法としては、神もまたあるものとして包蔵し、ただ、この上に超出するの法あることを説けば可なり。これを成すには、諸外教のことを知るは必要なり。」


仏教はキリスト教よりも二つの点で近代科学と整合する。

第一は、キリスト教は諸々の現象を「神意」によって説明するが、仏教は「輸廻因果」によって説明する。仏教でいう「因果輪諧廻」はものごとを原因結果の相関関係で捉える近代科学の方法に近い。

宗教の優劣をきめるもう一つのものさしがある。

「西洋の耶蘇教の特色として私のもっぱら賛称するのは、その平権自由と申す一事に御座候」という。

人間の平等ということにかけては、近代のキリスト教の方が近代の仏教よりも上等であるという判定である。しかし仏教よりも、キリスト教よりもまさっているのはジャイナ教である。キリスト教は人類の平等を説くが、ジャイナ教はその上に生類の無差別を主張し、実践する点でより優れているのだと南方は評価した。

マックス・ウェーバー(1864〜1920)が比較宗教社会学の雄大な研究に着手したのは、1911年。南方がロンドンを去って十年余り後である。その「合理性」を尺度としてヒンズー教・仏教・儒教・道教・古代ユダヤ教等の諸宗教を比較し、プロテスタンティズムのキリスト教が最も「合理化された」宗教形態である。としたのに対して、南方は、化学との一致を尺度として、大乗仏教を最も優れた宗教原理とした。もし、南方が土宣法竜宛書簡で描いた壮大な企画を達成していたならば、ウェーバーと比較することのできる比較宗教論を我々はもう一つの大きな遺産として持ち得ただろう。


「南方曼陀羅」は南方の学問の密教的側面であり、粘菌研究は南方の学問の顕教的側面であるということができる。この顕密両面が連動して南方の比較民俗学が成立した。

「南方曼陀羅」は彼の理論体系のモデルであるが、それは抽象的仮説命題の体系を伴わない絵図(モデル)なのである。それは、その絵図からはみ出したところに、宇宙の全体像が実在するという信念〜宗教〜に支えられている。

南方は「南方曼陀羅」に捕らわれたのではないか?

あまりに多くのまばゆい程の大小の発見に心を奪われ、ひき裂かれたのではなかったか?

様々な独創的な思想、及び理論への可能性を孕む南方曼陀羅の結び目を解いて、辛抱強く展開してゆく仕事は我々読者のものであるようだ。


講談社学術文庫〜鶴見和子著『南方熊楠』より抜粋〜

文中、抜粋者の挿入文有り。
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2016年02月05日

Episode2 空海・流体力学

〜流体とフラクタルを内包する曼陀羅と真言密教〜
中沢新一 著

空海にはたくさんの顔がある。密教の思想家としての空海がいたかと思うと能書家にして名文家のアーティストとしての空海がいる。昔ながらの操作にたけた政治家としての空海も同居している。けれど、とりわけ興味をそそるのは、流体土木の技術者としての空海なのである。
 空海が流体を扱う土木技術者であったという事は、イメージとしても、また現実においても、彼の全ての活動を貫く太い縦糸となっている。溜池を掘り抜いたり、運河を開さくする土木工事は、ソリッド・システムと流体モデルを結合する高度な科学と技術を必要とする。流体土木の工事には無数の渦が複雑な乱流を作りながらたえまなく流動していく運動体の強度を予測し、測定した上で、それを分流させ、合流させる為に必要な速度、圧力、運動、接線等を取り扱う流体的思考、流体センス、流体に対する独特の感覚や体験的知識が要求されるのだ。流体土木の技術者には、ただの建築家以上のセンスがなくてはならない。そして、恐らく空海はこの独特のセンスに恵まれ、それに磨きをかけて、あらゆる面でぞんぶんに発揮した人なのである。
 また、空海の得意とした「書」の場合、第一に漢字を書く行為だから、そこには当然、何らかの意味を伝達する為の言語構造が背景になっているはずだ。感じの中に潜んでいる「自然の身ぶり性」の様なものは最小限に抑制されなければばらないだろう。ところが道教的伝統の中で生み出される「行」や「草」の書は、いったん形式化にむかった漢字の中に、ふたたび「自然の身ぶり性」を注ぎ込んでいこうとするのである。ここにはソリッド・システム(言語の意味論的構造)と流体モデル(行や草の運動性)を結合する流体土木的な発想がみちあふれている。 確かに空海の「書」には、こういう玄妙なタオの遊戯性が満ちあふれている。
 それならば、名文と言われているものだって、その例外ではない。ここでも、ただ明瞭な意味を伝えるだけでは不十分で読み手を感動させ、説得する事、その場合、古代的な修辞学では言葉のダンスとでも言うべき音楽性が強調された。そこでたとえば空海が、駆使した四六駢儷体の様に、意味の伝達性と共に、視覚的、音声的な音楽性が強調されたのである。この音楽性が、身体や声のつや、強度、身ぶり性、リズムなどという流体モデルと深い関わりを持っている特性に、つながりを持っていることは言うまでもない。空海は活動のあらゆる領域で、流体土木の技術知を実践しようとした。そして、そのもっとも壮麗で、もっとも手の込んだ表現が他ならぬ真言密教であった。それは密教が意識の力をめぐる流体学的な技術知であるからだ。密教は自然状態にある意識の能産性の現場に、記号や象徴による媒介の手を借りずに素手のまま直接おりたっていこうとするプラティックな思想である。もちろん、密教も仏教思想のひとつの形には違いないから、言葉や様々な記号が織りあげる言語的リアリティーとも共通している。仏教はこの世界をたえまのない変様の場(フィールド)として捉えている。
 この世界にあるいかなるものもことも、それ自体の同一性を保ったまま存在しているものなど、ひとつとしてないのだ。どんなものもことも、無限の連鎖のなかでたえまなく変様を続けている場(フィールド)に生起する出来事として、それ自体の実体性を持っていない。私達の身体も含めた無限変様の場はすぐそこにあるのに、あたりまえにしているだけではもはや捉えられないものになってしまう。そこで仏教思想はその事をはっきりさせる為に、様々なテクニックを開発して来たのである。
 哲学的ディスクールを使うやり方では、そのラジカルさにおいて、中観仏教の右に出るものはないだろう。中観仏教の論争技法がその後の仏教思想全体に大きな影響を与えた事はよく知られている。中観仏教、特に竜樹の「中論」が、焦点を合わせたのは、言語の「S+V」構造(主語や動詞構造)である。このうちS(主語)は、この世界から名辞の単位を切り出してくる動きをする。Sのおかげで「私」「木」「山」などが、同一性を持った不連続な単位として捉えられる様になる。だが、私達の知覚は、一方ではこの世界をたえまない変様の場として経験し続けている。この世界に「静止」の相を持ち込むSの体系は必然的にパラドックスを産み出さざるを得ない事を、経験が教えている。
 そこで、Sが世界に「静止」の相を持ち込んだそのとたんに、言語は「動態」を表示するVを求めることになる訳である。それがこの世界のリアリティーなのだと教え込もうとする訳だ。だがそれは幻影だ、と中観仏教は主張するのである。そこで本当に起きているのは無限変様の場たるありのままの世界を「S+V」、つまりは「静止+動態」の弁証法的構造にすりかえてしまうという大掛かりな隠ぺいに他ならない。この地点から、中観仏教は他の一切の哲学的ディスクールの徹底的な解体作業にとりかかるのである。
 竜樹が「中論」で駆使した論理は、この世界が実体を持っていると主張する様な一切の哲学的ディスクールが、最終的に「S+V」のシンタックス構造と同型の構造に還元でき、それらの論理が結局のところは、たえず連動し、変化してやまない世界に「静止」の相を持ち込もうとするニヒリズムから逃れられない、という事を暴くやり方を取った。
密教は、仏教思想の自然主義化の企てである。それは無意識に始まり言語的意識にまで至る心的現象の全領域が(仏教は精神分析学に先駆けて「無意識は既に言語の様に構造化されている」ことを明らかにしている、主体の形成と外の世界の構成へ向かおうとする二元論化の力の萌芽に満たされていることを批判的に取り出したり、或いはどんなに朽みな論理の形式を編み出してみても、無限変様の場たるありのままの「空」の世界を説明する事はおろか、そこに触れることすらできないことを、パラドキシカルに証明してみせるだけでは満足できないのである。密教の企てはもっとプラグマティックなのだ。密教は、考えれば考え込む様、恐ろしい混純の様に思えてくる自然状態に放置されたままの意識の場に、直接おりたってゆく為の技術知の様なものを探ろうとしている。(言語の様に構造化されたアーラヤ識としての無意識を、更に突き抜けたところに現れるこの自然状態の意識は自らのなかに能産性をみなぎらせている。密教はその能産的自然のなかに入り込んでゆく。密教が仏教思想の自然主義化の企てだと言うのはその為である。
 密教は、非インド、ヨーロッパ語的でさえある。この事は、自然主義的で流体的だと言うこととも、深い継りを持っている。もともと仏教思想は、優れてインド・ヨーロッパ語的な特徴を持つインド哲学に取り囲まれ、そのなかの異端思想として発達を遂げてきた。よく知られている様に密教(タントラ仏教)はこういう仏教思想と土着文化との接触や混交のなかから産まれてきたものだ。非インド・ヨーロッパ語的なそれら土着文化においては、シンタックスの強力な構造が欠如していることもあって話者の同一性や対象世界の客観性などを作りあげる、言語の超越論的地帯に対する神経症的な程、切実な意識は、素直に受け入れにくいものだったのだろう。
 密教の場合に大切なことは、言語的な意識が恐れ隠ぺいする無限変様の場(フィールド)として、身体に注目したという点だ。身体は無限なのだ。その身体の無限に直接踏み入っていく通路を見つけ出すことなのである。いわゆる「マンダラの思想家」としての空海よりも弘法伝説の描く流体土木の技術者としての空海の方に魅力を感じているのは、その為だ。空海の密教思想は意識をめぐる流体土木的な技術知を反映したものである。その技術知が辿りつく「意識の自然」のありさまをしめるモデルがマンダラであり、そのマンダラは流体力学とも深いつながりを持つ、無数の渦と怪物曲線の作りなすフラクタル空間を、潜在的な「下絵」として隠し持っている。
 その意味では空海にとっての真言密教は、流体モデルをもとにする思考の、もっともスマートな表現たり得たのである。だが、その空海の思想を怪物的な「下絵」を塗り込めてしまった上に描かれたホーリスティックなマンダラ図をめぐる解釈学に集約してしまうとき、流体知としての真言密教のはらむラジカルな可能性は、私たちの前から遠ざかっていってしまう。マンダラの「下絵」はむしろ、伝説の弘法大師によっておびただしい溜池を掘り抜かれた讃岐平野の光景のなかに、潜んでいるのだ。
 空海は、だから言って見れば平らな石材の面という面を細かい渦巻きや怪物的な曲線でおおい尽くし、均質な表面をディテールで征服してまわっていたバロックの工人(メーソン)のような人だ。その彼が磨きあげようとしたものが渦や乱流を基本モデルとする流体学的な密教思想であった、というのは決して偶然ではないだろう。
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2016年02月04日

Episode3 混沌からの出発

〜道教に学ぶ人間学〜
五木寛之・福永光司 共著

 道教の大雑把な輪郭を把むには、イメージから入るのが良いかも知れない。
 何やら祈祷をあげて、おまじないの様な事をして、神がかりしてお告げを垂れる。怪しげで迷信臭いもの。そういったイメージは決して間違いではなく、混沌とした様相が横たわっているのである。
 一つの結論めいた事をさきに述べるとすると、アジア文化の最大の特徴はミックスとコンビネーションである。特徴というよりも本質と言った方が正確であるかも知れない。いくつもの生薬を混ぜ合わせて作る漢方薬がその典型である。
 一方、西方文化の柱となっている宗教は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教である。この三つの宗教は同じ根っこから出た兄弟の宗教であると言える。それでいながら、互いに交わろうとはしない。対立し、おのれの正当性を主張し、他を異端と見なし、それぞれの純粋性を強調します。
 ピュアーであろうとするのが西方文化の特徴であり、本質であると言える。
 道教のイメージを形作る多分に迷信的な要素。それは「巫(ふ)」もしくは「巫術」である。道教の原初的な姿は「巫」が大部分でこれを「鬼道」という。中国大陸に芽生えた土俗的な民間信仰や土着的な習俗を集約して巫の形態にまとめたのが鬼道の道教である。鬼道の道教として一応のまとまりができたのは、紀元前七世紀の頃と思われる。
 「巫」は巫術であり、鬼道であり、シャーマニズムだ。それは@祭祀A祈禱Bまじない(禁呪)C祝詞(のりと)Dおふだ(護符)Eかみがかり(憑依・霊媒)Fお告げ(神託・託宣)の七つを主な内容にしている。これらをもっぱら仕事としたのが原初の道教、鬼道なのである。鬼道といえば、いわゆる「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国の卑弥呼である。日本という国が形成されていくごく初期の段階に原初的な道教の影響が濃厚であった事が歴史書に記録されており、最近までその名残りが民間習俗の中に色濃くあったのだ。
 この事は見逃してはならぬ事である。
 巫術性の強かった鬼道の道教に整合性のある論理によって教義の体系を整える動きが出てきたのは二世紀半ば、後漢の順帝(三世紀)の頃である。道教が一つの思想哲学としての体栽を身につけ、教団としてまとまっていくのである。この時、道教に大きな思想的影響を与えたのが、いわゆる三玄の哲学であり、老子、荘子の「道」の哲学と易経の「神」の哲学でした。道教が老荘哲学を大きくとり込んだのはこの時期である。
 道教が鬼道から神道に変貌し、三張道教として教団の組織を整えていった頃、後漢に曹操という軍事の天才が出現し、三張道教の最後の統率者、張魯と戦って決定的な勝利を収めます。戦いに敗れた張魯は江西の龍虎山に逃げ込み、三張道教は外界の接触を絶たれて、山中の隠道宗教となります。この反体制的な三張道教に代って江南の茅山に新しく皇帝権力と妥協する体制内的な茅山道教が成立する。
 これは仏教や儒教の影響を強く受け、そのエッセンスを採り入れたもので、鬼道から神道に展開した道教が更に新しく展開し「真道の道教」と言われるものになった。そして教義の体系を整え、教団としてのまとまりも出てきたところで、主に仏教側からの厳しい攻撃に晒される事になる。それは道教が不老長寿とか羽化登仙とか自利の個人的な救済だけを問題にして、仏教のように捨身捨命の利他行を説かず、衆生済度の菩薩道を実践しようとしない、と。この批判に対して、道教の側は理論武装を展開し、衆生済度の考え方を採り入れた。衆生済度と同義の「度人(どじん)」や「救苦(きゅうく)」を教典名とする道教教典が大量につくられる事になった。これが「聖道の道教」と言われるものである。これが七〜八世紀、我国の古事記神話が成文化される頃までの道教の歴史であり、鬼道。神道、真道、聖道、この四段階の展開と変貌を経てきている事になる。
 道教の成仏論(成道論)は、様々な経典に説かれていますが、やはり荘士の「知北遊篇」がそれらを代表するのではないか。「道がないところはない。どこにでもある。ケラムシにもある。ひえくさにもある。かわらにもある。くそしょうべんにもある。」といっています。
 インドの仏教「湟槃経」では生きとし生けるもの、即ち意識をもった存在、有情のものに限定されていますが中国にやってくると、意識をもたない無情のものも草木土石にまでその範囲が広げられる。
 仏とは何ぞや、と問われて「麻三斤(まさんきん)」、「乾屎橛(かんしけつ)」と答えるのも「草木園土悉皆成仏」(天台九祖、荊渓湛然「金錍論」と説く中国仏教の成仏論に基づくが、この様な根元基盤をなす思想哲学もまた、道教の宗教哲学に基づくと見ることができる。
 「そもそも道は、時間のない空漠とした虚空から産まれた。その虚空に時間と空間のある宇宙が生まれ、その宇宙に元気が生じ、その元気に境目ができた。済んで輝くものは高くたなびいて天空となり、濁ったものは滞って大地となった。天と地の精気が重なり合って陰陽となり、陰と陽の二気が集まって春夏秋冬の四季を作り、四季をそれぞれの精気が分散して万物となった。これは漢代の劉安という人が作った「淮南子」(天文篇)に出ている世界の成り立ちを口語訳したものです。
 元気が陰陽二気を生じ、陰陽二気が交って和気を生じ、和気が万物を生じたという道教の「老子道徳経」(第四十二章)を踏まえている事は明らかです。そして気が散ずれば死です。この生と死のリンクを巡る気の流れが生命現象なら、なにも急速に回転する事もありません。
 生命現象の中に起こる、ままになるものと、ならぬものとをじっくり味わい尽くすべきです。これが道教の現世肯定、人間肯定の根本であり、「不老長生」という目標になります。
 道教には「導引」という修行法もあります。これと瞑想法とを組み合わせます。気の流れのバランスがとれスムーズになります。これによって精気が満ちてくるというのが道教の修行法の根本的な考え方です。道教には練金術の経典がたくさんあります。この練金術は石から薬を作り出す方法である。陰陽二気が交って和気を生じ、この和気が万物を生じる。この気の流れは活発です。生命現象がほとばしるときです。陰と陽とが交わるといえば、多くの人は男女のセックスを思い浮かべるに違いありません。
 セックスはスムーズな気の流れを象徴するものだ。道教では大変男女のセックスを重要視します。否定もしません。いや、否定も肯定もないのです。陰陽二気の交わりが万物生成の大元なのですから、気の流れのバランスをとり、そのとどこおりも防いでスムーズにするのに大変重要です。これがうまく行けば、不老長生に結びつきます。だから道教には閏房術の経典がたくさんあります。
 道教の哲学的思想的柱になっている老子や荘子を「玄の哲学」という呼び方がある。「玄」は「玄牝(げんびん)」ともいい、両者は同じ事である。「玄」は色でいえばやや赤みがかった黒、ほの暗く、定かではなく、すべての源。衆妙の入り口であり、そこを通って「道」は始まるものだという事である。この様に述べれば具象的なイメージが浮かんでくるはずです。それは女性の性器です。「玄」や「玄牝」は女性の性器のことでもあるのです。そして、こういう言い方をします。「道は万物の母である」(「老子」第一章)
 他の影響をおおらかに受け、異なる要素を大胆に採り入れ際限なくミックスし、コンビネートしていくのがアジアの文化です。道教は儒教や仏教の要素を柔軟に採り入れて展開してきました。
 同様に儒教や仏教も道の影響からまったく無縁ではありません。特に密教系の仏教には道教の影響が濃密です。
 真言密教の経典に「理趣経」と呼ばれている経典があります。これは真言宗でも秘中の秘とされている経典で滅多に読経される事はありません。「理趣経」を読むときは、一般衆生にわからぬように中国語、それも南方中国の呉音で読む程です。
 まぎれもない真言密教の経典なのに、これ程秘密扱いにするのは、そのあたりが中国仏教の腰の引けているところですが「理趣経」がセックスを讃美している内容だからです。「理趣経」ではセックスで味わうエクスタシーは菩薩の境地であると言っているのです。
 そこには陰念と陽気とが交わって和気が生じる。男女のセックスによって生じるエクスタシーこそが和気だと把える訳です。
 道教ではこれもまた気のバランスをとり、流れをスムーズにして不老長生の実現を可能にするものとしてとらえるのです。和気が生じ、そこから万物が生じるという様に、気は一元気から、万物へと流れていきます。
 セックスによって自分の生命が子孫へ受け継がれていくことでもあります。これで個体では限界のある不老長生を永遠に引き伸ばす事ができます。社会のもっとも基礎的な単位を個人でなく「血胍」によって結ばれた「家」におき、一族を重んじ、同族を重視する考え方は、この様な道教の哲学思想が基盤になっているのです。
 中国や朝鮮半島には、一族で結束し、相互に扶助し合って繁栄して行こうとする強い気風があります。その支柱になっているのは「血胍」であり「血統」です。
 この様な気風は長い儒教文化の歴史を持つ国に強いところから、血統を重んじるのは儒教のものと思われています。それは確かにそうですが、その根本にあるのは道教の不老長生の考え方なのです。
 この考え方は当然日本にも入ってきました。「古事記」や「日本書記」は天皇が万世一系であることの証明書として書かれたと言っても過言ではない。それが文化を担う血筋の交代であった可能性は、十分に考えられます。歴史学者からは二王朝が交代した、いや三王朝が交代したといった説が出されています。しかし、天皇万世一系説にとって王権が交代があったかなかったかなどは、中心にくる問題ではないのです。その背景には不老長生を願い、現世を肯定し、人間を肯定するおおらかで伸びやかな道教の考え方があるということ、そういう文化を日本人は「古事記」や「日本書記」の昔、いや、それ以前からもっているという事が最も重要だと思います。
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2016年02月03日

Episode4 若き空海の遍歴「華厳経」→「大日経」→「理趣経」へと辿る

司馬遼太郎 著「空海の風景・上巻」より

 空海は32歳、大唐の長安で『理趣経』を得たとき、この年齢のころ、空海はすでに性欲はいやしむべきものであるという地上の泥をはなれてはるかに飛翔してしまっている。それどころか性欲そのものもまたきらきらと光耀を放つほとけであるという、釈迦がきけば驚倒したかもしれない次元にまで転ずるにいたるのである。

 筆者は空海がなぜ大学をとびだしたかについてのなにごとかを知ろうとつとめている。かれの青春における変転を知るために、かりに、つまりは作業用の仮説として、かれにおける性の課題を考えようとしている。ひるがえって考えれば、人間における性の課題をかれほどに壮麗雄大な形而上的世界として構成し、かつそれだけでなくそれを思想の体系から造形芸術としてふたたび地上におろし、しかもこんにちなおひとびとに戦慄的陶酔をあたえつづけている人物が他にいたであろうか。

 理趣経(般若波羅密多理趣品)というのはのちの空海の体系における根本経典ともいうべきものであった。他の経典に多い詩的粉飾などはなく、その冒頭のくだりにおいていきなりあられもないほどの率直さで本質をえぐり出している。

   妙適清浄の句、是菩薩の位なり
   欲箭清浄の句、是菩薩の位なり
    触 清浄の句、是菩薩の位なり
   愛縛清浄の句、是菩薩の位なり

 妙適とは唐語においては男女が交媾して恍惚の境に入ることを言う。インド原文ではsurataという性交の一境地をあらわす語の訳語であるということは、高野山大学内密教研究所から発行された栂尾祥雲博士の大著『理趣経の研究』以来、定説化された。筆者もそれにしたがう。インド人は古代から現代にいたるまで物事の現実の夾雑性をきらい、現実から純粋観念を抽出するというほとんど本能的な志向をもっているが、しかしこの語は性交の経典である『愛経(カーマ・スートラ)』においても媾合としてつかわれているというから卑語、穏語ではなくごく通常の用語として使われていたのであろう。これが長安に入って唐語に訳されたときに、妙適という文字があてられた。妙適は長安の口語ではあるまい。あるいは訳者がとりいそぎこういう造語をつくったのかもしれない。なぜなら性交の各段階に関する分類や言葉はインドにおいてこそそれが明晰で、ほとんどいちいち成分を抽出して結晶化してみせるほどに厳密であったが、インドにくらべて言語における明晰性のとぼしい中国にあっては造語をするしか仕方がなかったかともおもわれる。

 妙適清浄の句という句とは、文章の句のことではなく、ごく軽く事というほどの意味であろう。「男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である」という意味である。
 以下、しつこく、似たような文章がならんでゆく。インド的執拗さと厳密さというものであろう。以下の各句は、性交の各段階をいちいち克明に「その段階もまた菩薩の位で」あると言いかさねてゆくのである。
 第2句の、
「欲箭」
 とは、男女が会い、たがいに相手を欲し、欲するあまり本能にむかって箭(や)の飛ぶように気ぜわしく妙適の世界に入ろうとあがくことをさす。この欲箭たるや宇宙の原理の一表現である以上、その生理的衝動のなかに宇宙が動き、宇宙がうごく以上清浄でないはずがなく、そして清浄と観じた以上は菩薩の位である…。
 ついでながらこの経典における性的運動を説く順序が逆になっている。「欲箭」の前段階が、「触」である。
 「触」
 とは、男女が肉体を触れあうこと。それもまた菩薩の位である。

 次いで、「愛縛」の行為がある。仏教経典における愛という語はキリスト教におけるそれではなく、性愛をさす。愛縛とは形而下的姿勢をさす。インドのブンデルカンドの曠野にある廃都カジュラホの、そこに遺っているおびただしい数の愛の石造彫刻こそ愛縛という字義のすさまじさを物語るであろう。理趣経はいう。男女がたがいに四肢をもって離れがたく縛りあっていることも清浄であり、菩薩の位であると断ずるのである。この経の華麗さはどうであろう。
 さらに理趣経は「一切自在主清浄の句、是菩薩の位なり」という。その一切自在の「自在」とは後世の禅家がしきりに説く自在ではなく、生理に根ざした生理的愉悦の境を言うのであろう。男女が相擁しているときは人事のわずらわしさも心にかかることもなにごともなく、いわば一個の人事的真空状態が生じ、あるいは宇宙のぬしもしくは宇宙そのものであるといった気分が生じ、要するに一切自在の気分が漂渺として生ずる。それも、菩薩の位である、というのである。
 筆者は、奈良の東大寺に電話をかけてみた。東大寺は空海以前の成立で、仏教における華厳の体系を宗義とする寺である。しかし空海が後年、かれは真言密教の始祖でありながらこの大寺の別当として一時在山したため華厳のほかに真言密教の教義が入っているといわれる。「東大寺でもっとも多くよんでおられるお経は何ですか」ときくと、意外にも空海が自分の思想の核心においたこの理趣経であった。その後、高野山にのぼった。朝六時からの勤行に出ると、そこでよまれていたお経も、理趣経であった。理趣経に性愛のなまなましい姿態的説明が書かれ、それがとりもなおさず菩薩であるということは、教典が唐音で音読されているためにわれわれはその極彩色的情景を想い描くことなしに済んでいる。日本の中世にあってこの理趣経の字句的解釈を知った僧によって、この字句解釈のみをとりだして性交こそ即身成仏にいたる行であるとした一流義ができた。たとえば南北朝争乱期の後醍醐天皇がその熱狂的な信者になったりしたことがあるが、むろんそれは空海の本意ではない。空海は万有に一点のむだというものがなくそこに存在するものは清浄--形而上へ高めること--としてみればすべて真理としていきいきと息づき、厳然として菩薩であると観じたのみである(ただしついでながらこれは釈迦の思想ではない。釈迦の教団は、僧の住む場所に女の絵をかかげることすら禁じたほどの禁欲の教団であった)。さらについでながら、理趣経の文章が律動的な性的情景を表現しているということは、空海以後、それが漢語であるがためにあまり的確には知られることがすくなくて過ぎてきたが、大正期あたりから梵語学者の手でそれが次第にあきらかにされはじめた。ただ空海は長安においてインド僧から梵語を学んだためにそのいちいちの語彙のもつ生命的情景も実感もわかりすぎるほどにわかっていたはずである。
 かれが勤操というこの時期の有力な学僧から格別な庇護をうけたことは、かれにとって重大なことであった。勤操との関係におけるかれの資格は、近事というものだったと思われる。近事とはこの当時の寺院の用語である。僧たる資格なくして師に仕え、師の指導によって仏事をおこなう者、というほどの意味で、男の場合を近事男、女の場合を近事女といった。空海は、勤操の近事男になった。これによって勤操の身近にいてその話をきくことができたし、また諸管寺が蔵している経典類も、勤操のつかいという資格において、出かけて行ってそれを閲覧することもできた。これは尋常ならざることであった。この当時、諸官寺の経蔵に入るなどはよほどの立場をもたなければ不可能であり、そのことをなしうるには、なまじい官僧になって僧網のはしくれにつながるよりも、勤操の指摘給仕入になり、かれの用事であるとして諸管寺の経蔵をひらいてもらうほうが、はるかに自由自在であったといえる。後年の空海の、ときに目をみはりたくなるほどのずるさが、このあたりにすでに出ている。かれが世間を御するにおいて芸術的なばかりに妙を得ていたということは、勤操の近事になったことにおいて、すでにその萌芽が青々とのぞいているのである。

 この七年間のあいだかれは山林において修行しつつも、右のような世間的才覚による翼を借りつつ諸寺を歩き、その経蔵に籠り、文字どうり万巻の経典を読んだらしい。空海の入唐後の、ただならぬ自信はこの時期の充実感をよりどころにしている。
 ところで、この時期、日本に存在していたのは、学解の仏教であった。
 この当時の仏教は、華厳、俱舎、成実、法相、三論、律という六部門にわかれ、付宗として唯議論、瑜伽論などもふくめられる。これらはすべて仏教的思考法を中心としたインド思想そのものの体系で、あくまでも思想であり、これをもって宗教という概念にはあてはめにくい。しかしながら空海がこれらのすべてを修めなければ、後年、かれが長安において、この唐都ですでにもたらされていた純粋密教というものを、接するやたちどころに了解したというふうな情景は成立しえなかった。
 いまひとついえば、インド本においても純粋密教の成立にいたるまでには、歴史的に右のような経過を経ているのである。
 空海はこの七年間に、学解の宗教を独習した。一部門でも非常な難事とされるのに、かれは猛獣が鋭利な歯で骨を割りくだくようにしてすべてを修めるというなしがたいことをやったらしい。とくにかれは華厳経において、のちのかれの飛躍と完成を遂げるための重大な素地をつくった。
 後年のかれは
 「過去のどの宗も真言密教にはるかに及ばない。ただ華厳経のみが、いま一歩のところで密教に近づいている」
 という意味のことをいったり書いたりした。華厳学は東大寺がその部門のための単科大学としてたてられている。かれが華厳にうちこんだということは、若いころ日本国第一等の官寺である東大寺に自由に出入りしていたことを暗示している。すでに触れたように、気の弱い僧なら門前で尻ごみするほどのこの官寺に、かれはぬけぬけと出入りし、経蔵に入りこんだり、無資格ながら講筵に顔をのぞかせたりしていたことになる。
 いずれにせよ、華厳をかれが知り、それに注目したということは、かれがいまだインドの純粋密教を知らずしてその成立の化学式を自得したようなものであり、この点において重大であったといっていい。
 インドにおいて、純粋密教を成立せしめた理論家たちが、本来低次元の宗教現象という意味で箸にも棒にもかからなかった土くさい雑密のたぐいのものを、あたかも化学変化をさせたように他のもの(純粋密教)に飛躍させてしまったそのかぎというのは、多分にこの華厳経にあった。華厳経を協力な触媒に仕立てて添加することによって、在来の仏教とも土欲的な雑密ともちがった形而上的世界をつくりあげてしまったのである。
 この作業に、インドの本土では何百年かかったであろう。釈迦以前のインド思想から釈迦以後をへて華厳経の成立(完成は四世紀ごろ)するまでの時間的距離を考えただけでも気の遠くなるほどの長い時間である。つづいてそれらを触媒にして純粋密教を生みだす期間だけでも百年以上はかかっているであろう。
 無名の青年である空海が、インドからはるかに遠い島国において、縮図的ながらも偶然インドとおなじ過程をたどりつつ、わずか七年で純粋密教へ飛躍するその基礎をつくったということは、信じがたいほどのことだが、しかし事実である。

 すこし、雑談風に華厳経についてのべる。
 中国および日本の思想にこの経ほどつよい影響をあたえたものもないのではないかとおもえる。一個の塵に全宇宙が宿るというふしぎな世界把握はこの経からはじまったであろう。一はすなわち一切であり、一切はすなわち一である、ということも、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、また禅がしきりにとなえて日本の武道に影響をあたえた静中動あり・動中静ありといったたぐいの思考法も、この経から出た。この経においては、万物は相互にその自己のなかに一切の他者を含み、摂りつくし、相互に無限に関係しあい、円融無礙に旋回しあっていると説かれている。しかもこのように宇宙のすべての存在とそのうごきは毘盧遮那仏の悟りの表現であり内容であるとしているので、あと一歩すすめれば純粋密教における大日如来の存在とそれによる宇宙把握になる。さらにもう一歩すすめた場合、単に華厳的世界像を香り高い華のむれのようにうつくしいと讃仰するだけでなく、宇宙の密なる内面から方法さえ会得すれば無限の利益をひきだすことが可能だという密教的実践へ転換させることができるのである。六世紀、七世紀のインドの理論家たちもそう思い、日本にあっては空海もそうおもった。空海はのちに真言密教を完成してから、顕教を批判したその著『十住心論』のなかで華厳をもっとも重くあつかい、顕教のなかでは第一等であるとしたが、このことはインドでの純密形成の経過を考えあわせると、奇しいばかりに暗合している。若い空海が陀羅尼を銜えてほっき歩いていたただの私度僧ではなかったということは、この論理の作業をしていたらしいということでわかる。

 奈良朝末期平安朝初期にかけ、国をあげて諸経典に接触した。そういう時代でありながらこの大日経がわすれられていたというのは奇妙なほどだが、いわゆる奈良六宗が僧侶にとって必須の学であった以上、それ以外の異系列の経典などはたとえ関心をもっても得度試験に関係はなく、また学僧たちが天子の前で講筳をひらく場合も、そのような非正統の経典を講ずるわけにゆかず、要するに宗教的重要よりも社会的需要が、この教典については皆無だったのである。自然、それがために忘れられたのではないか。という憶測だけでは、半世紀も無視されていた事情が十分に納得できないが、要するに異質の思想は異質の天才の出現を持つ以外になかったともいえるかもしれない。
 『御遺告』によれば、空海は夢にこの経を感得したという。『御遺告』は空海の談話の集録だから、晩年の空海は弟子たちにそんなことをいっていたのだろうか。
 『自分は三乗五乗十二部経を読んでも心神に疑いあってどうにも納得できなかった。このため仏前に誓願して、願わくはわれに第二の(決定的な)法門を示したまえ、と祈っていたところ、夢に人が立ち、つげていわく、ここに経あり、大毘虜遮那経(大日経)と名付く、これ汝がもとむるなり、と。そこで自分は随喜してくだんの経をさがしまわったところ、意外にも大和の国の高市群の久米寺の東塔の下にあった」
 と、神韻漂渺としている。

 いずれにせよ、その東塔の下にねむっていた大日経にはじめて接した空海のよろこびは、想像を絶するものがあったにちがいない。
 昼は塔内に籠って経を読み、夜は松林の中の僧房にでも泊めてもらったのであろうか。この時期、寺々は風来坊を泊めるのはともかく、食をあたえるほどの豊でなかったようであり、まして久米寺程度では空海のために食物まで用意できたかどうか。かれはときに村々を物乞いしてまわって食を得たかもしれない。
 もっともそのあたりはすばしこい空海のことである。
『私は、勤操上人のお使をしている』
 ということで、存外、大いばりで寺僧に斎を出させていた、と考えるほうがかれの情景としてふさわしいいようである。

 空海はこの大日経を、漢文の部分はおそらくよほどすみやかに読めたのではないかと思える。なぜならば大日経にみられる複雑な論理は他の仏教経典にみられないものであるうえに、およそ種類を異にしていると思われるほどのものであるが、しかし華厳経のみは種類をおなじくしているからである。華厳経に熱中していた空海ならば大日経の論理の世界には違和感をもたずに入りこめたにちがいない。さらにはもっとも重要なのは、華厳経に出現する毘虜遮那仏が、大日経にも拡大されて出てくることである。

 毘虜遮那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの思想上の存在である。毘虜遮那仏の別称はいろいろある。遍照ともいう。光明遍照ともいう。浄満、あるいは厳浄などともいう。あたかも日光のごとく宇宙万物に対してあまねく照らす形而上的存在という意味であり、ごく簡単に宇宙の原理そのものといってもいい。この思想を、空海ははげしく好んでいただけでなく、さらに「それだからどうか」ということに懊悩していたはずであり、その空海の遺り場のなかった問いに対し、『華厳経』は答えなかったが、『大日経』はほぼ答え得てくれているのである。大日経にあっては毘虜遮那仏は華厳のそれと本質はおなじながらさらにより一層宇宙に遍在しきってゆく雄渾な機能として登録している。というだけでなく、人間に対し単に宇宙の塵であることから脱して法によって即身成仏する可能性もひらかれると説く。同時に人間が大日如来の応身としての諸仏、諸菩薩と交感するとき、かれのもつ力を信用しうるとまで力強く説いているのである。空海がもとめていたのは、とくにこの後者〜即身成仏の可能性と、諸仏、諸菩薩と交感してそこから利益をひきだすという法〜であった。
 空海はどうみても天性そういう体質であるとしか思えない。
 かれは奈良仏教にみられるような解脱だけをもって修行の目的とする教えはやりきれなかったにちがいない。解脱とは人間が本然としてあたえられている欲望を否定する。その欲望の束縛から脱して自主的自由を得るというのが、釈迦以来、仏教における最高目的になっている。しかし煩悩の束縛を脱するだけならば白痴はすでに脱しているではないか。あるいは白痴には智彗がないために自主的自由における至福の境を味わうことができないという道理もありうるが、しかし白痴が主観的に自分の境地を不幸だとおもっているかどうかはわからない。その至高の自主的自由の境地を涅槃とよぶ。とくに生きながらの涅槃を有余涅槃とよぶが、生きながら涅槃に入りうる人など稀有というべきで、多くは煩悩のもとである身体が離散したときに涅槃に入る。これを無余涅槃という・要するに死である。死はたれにでも来るものではないか。死を喜ぶ教えとはどういうものであろう。しかも、死がきたあとに成仏できるかといえば、奈良仏教においては「それはかならずしも保証できない」という立場をとっているのである。
「そういうばかなことがあるだろうか」
 と、空海は不満だったにちがいない。空海は死よりも生を好む体質の男であった。
 かれの不満は、釈迦の肉声に近いといわれる諸経典に対するほとんど否定的なばかりのものであったにちがいない。
 かれは釈迦の肉声からより遠い華厳経を見ることによってやや救われた。死のみが貴くはなく、生命もまた宇宙の実在である以上、正当に位置づけられるべきではないかと思うようになったはずである。生命が正当に位置づけられれば、生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在として、つまり宇宙にあまねく存在する毘虜遮那仏の一表現ではないか、とまで思いつめたであろう。この思いつめが、後年、「煩悩も菩薩の位であり、性欲も菩薩の位である」とする『理趣経』の理解によって完成するのだが、その理解の原形はすでにこの久米寺の時期前後にあったであろう。思想家は本来、天の一角からおもわざる思想を啓示されて誕生するのではなく、かれの思想を触発したものが何であれ、やがてかれが生むにいたるその思想は、かれのうまれながらのものの中に蔵されているとみたほうが自然でいい。空海は生命や煩悩をありのまま肯定したい体質の人間だったにちがいない。さらに小乗的な解脱を死と苦のにおいのする暗くさびしいものとして感じ、それを、たとえ潜在的にせよ、全霊をもって拒みつづけていたところがあったにちがいなく、もう一歩踏み込んでいうと、生命を暢気で明るいものとして感ずる性格だったかとおもわれる。さらに言いきってしまえば、かれはそれらの思想的色彩感覚のほかに「悟り」というものから現世的な福利をひきだして当然ではないかという、あくどいばかりの願望をもつ体質の人物だったかのようである。

 ともあれ空海は、この漢訳をよむことによって大日経の理論は理解できた。
 ただし、空海にも解せない部分がある。大日経には、仏と交感してそこから利益をひきだすという方法が書かれている。その部分は、秘密(宇宙に内部の呼吸のようなもの)であるがために、宇宙の言語である真言を必要とし、また交感のためには真言だけでなく印を結ぶなどの所作を必要とした。この部分は大日経においても文章的表現が因難であるだけでなく、多くは梵字で書かれている。やがてかれは唐へ入ってインド僧に梵字を学ぶが、しかしこの時期においても素養はすでにあったかのようである。とはいえ、この真言という秘密語までは解くことができず、いずれにせよ、密教は半ばは教理で構築されているが、他の半ばはぼう大な方法の集積であるためにこればかりは手にとって伝授されることが必要であった。
 空海はこれがために入唐を決意した。大日経における不明の部分を解くためであった。空海の入唐目的ほど明快なものはない。かれは多くのひとびとのように栄達のために唐へゆこうとしたのでもなく、文明へのあこがれのために長安を見ようとしたのでもなかった。久米寺で見た大日経についての疑問を明かしたいためというだけのものであり、遺随・遺唐使の制度がはじまって以来、これほど鋭利で鮮明な目的をもって海を渡ろうとした人物はいない。
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2016年02月02日

Episode5 景教との出会い

 我が大和の国、日本の歴史は、有史以前より四海に囲まれ、東西南北各方面より渡来した様々なる諸民族によって多岐に渡りその影響を被り、育くまれ、独自の民族性を形成してきました。
 長い日本史の所々に次の時代へと繋がりの深いエポックが点在するのも見逃せません。
 その数あるエポック・メイクの一つとして以下に展開する「学説」の真偽はともあれ、興味あるお話を一つ。
 まず「景教」と言う宗教をご存知でしょうか。景教とは、キリスト教の一派、ネストリウス派の事である。これは五大司教座(ローマ・コンスタンチノープル・アレキサンドリア・エルサレム・アンティオキア)のひとつ、コンスタンナノーブル司教座の総大司教・ネストリウス(?〜451年)に始まり431年、ギリシャのエフェソスで開かれた宗教会議で異端とされ追放された一派だった。彼らは当時の教会で広く用いられていたイエスの母、マリアに対する呼称「テオ・トコス」(神の母の意)を斥け「クリスト・トコス」(キリストの母の意)と言う呼称を唱え、更にキリストの神性と人性を分離するという神学を主張。この特殊性ゆえに異端とされたのである。 
 西方世界を追放されて後、ネストリウス派は東方へ伝播し、635年、ペルシア人景教僧、阿羅本(あらほん)により、唐へ伝えられた。以後、唐では景教と呼ばれ中国に初めて伝わったキリスト教として大いに栄えた。長安には太秦寺(だいしんじ)と称する景教の聖堂が建ち、あまたの信者を抱かえていたといわれる。そうした唐代に於ける景教の隆盛ぶりを記録したのが781年に太秦寺境内に建立された「太秦景教流行中国碑」である。
 選者は景教僧・景浄であった。景浄は本名をアダムと言い、三十余りの景教教典を漢訳し、仏典の漢訳にも協力した。特に大乗教典「大乗理趣六波羅密多経」の漢訳で般若三蔵に助力したと言われている。両者は密な関係にあったわけである。だが、後に景浄の景教寄りの解釈の為、般若三蔵は離反した。在唐時の空海は、梵語の教授をこの般若三蔵と牟尼室利三蔵にも就学していた。
 先に挙げた「太秦景教流行中国碑」の事であるが、明治二十年代に仏教学者・高楠順次郎博士が唐代の編籑になる「貞元新定釈教目録」を発見し、碑文の選者が明らかに実在していた事に驚いて、パリの東洋学の専門誌に発表し、これが碑の真贋を決める確証の一つになった。
 ついでながら「太秦景教流行中国碑」に景浄の他に「及烈」と言う名の景教僧も出てくる。及烈については、大正初年、桑原隲蔵博士が「冊府元亀」という唐代の書物を検索している時、この碑文の中の名がこの碑の真物であることがいよいよまぎれもないことになった。囚に桑原博士の「ネストル教の僧及烈に関する逸事」(大正四年十一月「芸文)には、「及」の古音がgapで「烈」はlietであるため、及烈の胡音はGabriel(ガブリエル)であろうとしている。
 古代中国に入った景教徒達はコンスタンチノープルを追放されて後、シルクロードを経て約200年後の唐の時代にペルシャ人景教僧、阿羅本によって、齎された事は先述した通りである。
 それとは別にペルシャからインドに入り、インド東岸から海路で、中国沿岸にそって朝鮮を経由し、日本の比奈ノ浦(現在の兵庫県赤穂郡)に上陸した景教徒が秦氏と称して日本に仏教が渡来する以前に古代キリスト教の遺跡を残しているという。彼らは比奈ノ浦にダビデ(ユダヤ人のダビデ王。漢訳名は大闢(だいびゃく))の礼拝堂(のちの大避(おおさけ)神社)を建て、そばにいすらい井戸をつくった。(イスラエルの民の宗教生活の習慣として井戸を掘る)後に秦氏一族は比奈ノ浦を同族の聖なる地として神社ひとつを潰し、主力を山城(京都)に移して氏族の都を太秦の地に定めた。そこに大闢同神の社で、現在大酒神社となっており、太秦広隆寺の摂社として、今日に至るまで千数百年の社齢をけみしている。)を建てて、近くに地軸まで突き通しそうな深い井戸を掘った。それがやすらい井戸である。大正時代に来日したゴルドン夫人は比奈ノ浦と京都の太秦の遺跡を踏査した結果、秦氏がユダヤ人景教徒である、と断定している。ユダヤ人景教徒の血をひく夫人が、太秦広隆寺を建立した秦の河勝の木造を一目見るなり我々ユダヤ人にそっくりだ”と声を張り上げてさけんでいる。森陸彦氏の「ゴルドン夫人と日英文庫」(私案版・平成7年)によると、夫人はイングランドの名家ヘンリー家に生まれたという。貴族のゴルドン家に嫁ぎ、育児のかたわら、ヴィクトリア女王の女官を務め、更にオックスフォード大学に学び、三十五歳で卒業。キリスト教徒から仏教徒となり、真言宗の信者として死去。遺骨は高野山に自ら建てた景教碑の下に納められた。
 そして東京日比谷図書館の開館に尽力。夫人の募集した図書は、早稲田大学と高野山大学の図書館に所蔵されると、秦氏=ユダヤ人景教徒”説の研究が進むに違いない。ゴルドン夫人と親しかった早稲田大学教授で、景教研究の第一人者、佐伯好郎博士は、兵庫県赤穂の大避神社に伝わる胡正面の写真を見るや、即座に正しくユダヤ人の顔だ”とさけび、生涯を通して秦河勝がユダヤ人景教徒であるという説を主張しつづけた。これらの逸話は、日猶同祖論者たちの間で有名だという。(昭和五十九年八月一日、商工毎日新聞)既にお判りの様にいすらい井戸とやすらい井戸とは、流浪のユダヤ人景教徒が掘った井戸でいずれもイスラエルのもじりである。
 昭和24年、夏のある日、産経新聞社京都支局の宗教担当の記者であった若き日の司馬遼太郎は銭湯で一人の人物にあった。その紳士は、何者とも知れぬ司馬に「キリスト教を初めてもたらしたのは、聖フランシスコ・ザビエルではない。彼より更に千年も前、既に古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の渡来よりも古かった。第二に渡来したザビエルが、なにをもってこれ程の祝福を受けねばならないか。
 その遺跡は京都の太秦にある。」と話してくれたと言う。その紳士はかつて、有名国立大学教授であったと語り、日本古代キリスト教”の遺跡について指示してくれたので、兵庫県の比奈ノ浦や京都の太秦の遺跡を踏査して、それに関する記事を書き、「すでに十三世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と締めくくった。その後、昼は新聞社で今日の「現実」を切り取る仕事をして、夜は想念が「現実」から抜け出して古代地図の上を逍遥し、「兜率天の巡礼」を書いたと言う。それ以前にも司馬作品として「ペルシャの幻術師」「戈壁(ごび)の匈奴(きょうび)」と言った、シルクロードやオアシスを背景にした歴史ロマンの短編を数多く執筆している。
 少年の頃からモンゴル系の遊牧、騎馬民族の匈奴、蝉蝉(ぜんぜん)などにひかれ、大阪外国語学校で蒙古語を学び、匈奴と関連のあるスキタイに興味を持ち、スキタイに影響を与えたペルシャ文化に対する感心を深めた。ペルシャの幻術は、拝火教(ゾロアスター教)の僧達が陶酔的なペルシャの音曲を奏で、幻賞症状を起こす大麻や催眠術を使い、様々な幻術を演じて、人々を信者にする為の妖術の類であった。拝火教はシルクロードを経て中国に入ると祅教(ようきょう)と呼ばれ、その僧たちが散楽雑技(音楽に合わせて演ずる幻術、奇術曲芸など)を行った。散楽雑技は日本にもたらされて、クグツ(傀儡子とも呼ばれ狩猟、漁、人形まわし、幻術、奇術などを生業とする漂白民)、山伏(修験者)、忍者に伝承された。
 忍術の開祖ともいわれる役の行者は葛城山のふもとで生まれ育ち、呪術者の一族の彼は、まじない、占い等の土俗的な呪術にすぐれていた。外来の雑密の呪法にも通じ、特に孔雀明王の呪法に長じていた。孔雀は毒蛇や毒草さえ食べてしまう悪食の鳥なので、古代インドの波羅門(ばらもん)(四つのカースト階級中で最高の僧侶)はそのすざましい消化力に超能力を感じて、偶像化し、神と崇めた。
 孔雀明王像と呪法はシルクロードを経て山辺の道を通って大和に入っていた。役行者はそれと我国の古神道の土俗的な呪術を混合して験力を強め、ついに修験道の開祖とされるに至った。
 空海は、役行者が習合した占い、まじない等の土俗的な呪術と孔雀明王の呪法(雑密)を体系化し、更に孔雀明王を大日如来(太陽、昆虫、鹿など、宇宙にあまねく満ち満ちている超越者であるとされている)の化身として昇華させ、純粋密教の僧侶によって病気平癒、安産祈願など加持祈祷で活用された。
 孔雀明王の呪法が山辺道もしくは、大道を経て、大陸から大和へもたらされた頃、それと前後して散楽雑技は同じコースを通って大和に伝来していた。
 その双方が習合されたのか、或いは習合されないで密教僧、山伏、歩き巫女、クグツ、幻術師たちに伝承されたのかは判らない。
 余談ながら、ゴルドン夫人は秦氏が景教徒であったという説をたてているが、要するに秦氏は迷の一族なのである。だが、海音寺湖五郎、司馬遼太郎、いずれも指摘していないのは、散楽雑技を中国から日本にもたらしたのが秦氏であったと言うことである。
 ハタはペルシャ語ではるばる来た”という遠来の民族の事だと言う。そして応神帝の時代に散楽雑技を得意とするペルシャ系の放浪民族が紛れ込んでいる移民たちを統率して日本に渡来したという説がある。ペルシャの幻術や奇術を演じる放浪民族たちとその後商は、クグツの集団に入って散楽雑技を演じながら、各地を漂泊したのではないかと思われる。
 以上、今回のEpisode5を校正する要素(キーワード)は「太秦景教流行中国碑」の存在に始まり、ユダヤ人景教徒による日本に於ける遺跡。しかも今日全国に寺社仏閣の総数は、日本の全コンビニエンスストアーの数に比較しても決してヒケを採らぬ程、無数と言ってもおかしくない。我国に壮絶大なる影響を与えた仏教伝来以前にすでに古代キリスト教の一派が古代渡来人として漂着し、京都太秦を拠点に技術、技能、文化等の根本要素を日本の伝統文化に影響をにじませていたという事がまさに驚嘆に値するのである。
 次回のEpisode6では、いよいよ「空海の思想」についてその一端に深掘りを進めたいと考えています。ご期待の程。
◆参考資料
学研版「空海とヨガ密教」小林良彰 著
文春文庫「ペルシャの幻術師」 司馬遼太郎 著
講談社文庫「風の武士(下)」 司馬遼太郎 著
両文庫・解説・磯貝勝太郎(文芸評論家)

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この碑の下にゴルドン夫人の遺骨が眠っている。
(和歌山県高野山)
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秦氏のルーツを辿る先祖の系譜が記されている「由緒書」
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大酒神社境内にある井戸
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京都太秦・広隆寺・正門(山門)
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